まねっこ

以前、ポップス奥の細道なる企画を長々と書いておりましたが、中断したまま。本来ならばその続きをしたいところ(とりあえずビートルズ登場までは書きたい)ですが、あれは結構しんどいので、いつかブログではなくサイトなどを設けてまとめて載せたいと思います。読んでくださる人がどれだけいるか(そもそも期待などされているのかについては判断停止)はともかく。
とりあえず、肩の荷を下ろす感じで、松岡正剛さんの千夜千冊の顰に倣い、千夜千曲でもやってみようかと思います。
まあ、あちらに匹敵するなどと考えてもおりません。企画をまねっこするだけです。
上の企画の紹介。以上。

陶酔するもの

The Best of the Animals

0001 The Animals "House Of The Rising Sun" (1964)

ブリティッシュ・インヴェイジョン勢の一翼を担ったアニマルズの代表曲、というより、一般的にはほとんどこれ一発のバンドとさえ思われているのでは。この曲はカバーでオリジナルは伝統的な民謡、日本で言えば津軽じょんがら節をロックでアレンジするようなもの。
邦題「朝日のあたる家」、ただし印象は朝日というより夕日を感じるのは何故だろう。
イントロのインパクトだけで永遠、そのギターリフが執拗に繰り返され、「最高のヴォーカリスト」(by ブライアン・ジョーンズ)のエリック・バードンのブルージーなややもったりとした声が被されば、問答無用に強烈。ですが、ビートルズストーンズとは全く異なる個性、1964年以前のどの曲とも異なる印象、その後のバンドでこれに近いのは、攻撃性のなくなったブリティッシュ・フォークか。霧のかかった森の奥から聞こえてくる衝動、民謡の枠を超えて、当時どんな風に響いたのか。現実は全米1位のメガヒット。
最初にこの曲を聴いた印象は、ずいぶん穏やかなメロディだと思った。ブリティッシュ・ビートのあのノリは皆無、同列に並べて語られるどのグループとも違う。しかし、これこそ当時のバンドたちが憧れたR&Bの世界であって、この歌唱、この静かな攻撃性と野蛮性、それが魔法のように宗教のように若者を支配し、洗脳したロックンロール。呪縛から離れれば、もっと世界は自由になる、僕らの過去にあったものに色を付けるのは、憧れであり、夢であり、陶酔であって、ここに拡がる砕かれ甦る民謡を聴くことで感じられるものはいくらでもある。ここでは何も否定などされてはいない。

Taro Urashima talks about

久しぶりに音楽のことでも。

僕は基本的にはロックンロ−ル中心に聞いてたのですが、90年代後半はほとんど死んでいた(ように思われていた)ロックンロ−ルが、2000年過ぎのストロークス登場辺りから勢いづいて数年前まで盛り上がっていた(ように思われていた)。
二回も括弧書きで嫌味のように書いたのは、死んだとか復活した、とかいうのも基本的には日本の一部の雑誌がそのように書いていた(いる)からであって、実際のところはどうだったかよく分からない。何より死んでいたとしてもその期間はたった5年弱。それまでの音楽でロックンロールが占めていた割合から言えば、5年も流行らなかったのは痛手だったんでしょうか。

最近はすっかり新譜を聴くこともないので情報も感覚もかなり不足しているのですが、昨年のUSのベストヒットをまとめて見た感じだと、ロックンロ−ルなどほとんどない。U2レディオヘッドあたりは最近のバンドなどではないので、彼らはブームに乗ってるわけでもなく、ごく自然に活動を続けていると見るべきだし、真実は、UKで売れたバンドが確かにクオリティも高かったこと、ストロークスやホワイトストライプスがガレージロックとして括りやすい音楽をやっていたことから、まとめてロックンロール復活などと書かれたんだろう、と思う。実際のところ、アメリカでは2000年以前といまではほとんど傾向が変わって無い。要するにコンテンポラリーR&Bとポップなラップ中心で、何がロックンロ−ル復活なんだと思う。
UKで売れたバンドを、ブリットポップの後継者と捉える向きもあるが、個人的にはこちらのほうが正しいと思う。特に、フランツ・フェルディナンドカイザー・チーフスのいちばん売れてるバンドは当然にそうだろうし、現在のエースのアークティック・モンキーズなどは典型的すぎて言うにことかいて当たり前だろといった感じ。
何が言いたいかといえば、要するに、UKで好まれるメロディを書くバンドがブームに乗ってわんさか出てきた結果、当然のように才能のある人が発見されて売れ、それを日本のメディアがロックンロール復活の標語で煽ったということ。怖い。
インディを見れば、それこそ色んなバンドが色んな音をやっている。世界規模で売れていいようなクオリティを持ったバンドもたくさんいるでしょう。要は、どこにスポットが当たっているかに過ぎない。売れるためには、そういう傾向もつかまないといけないという経済原理です。ポリスのスティングが最初はパンクを装ったとか、そういう例はいくらでもある。その反面、バズコックスのように政治的な歌詞を書かないために、(日本で)不当に低く評価されたバンドもいる。要は音だ。社会学的経済学的な意味以外でのブームは不要だし、煽りなど無用。
メディアの厄介なところは、ロッキンオンのような売れてるもの売れそうなものならなんでもござれに路線変更した雑誌はともかく、他の雑誌はアメリカのパンクやメタル勢をほとんど無視しているところにあって、実際のところはそういう音のほうが商業的に遥かに成功している。僕はその手の音が好きなわけじゃない。基本的に保守的で同じことの焼き直しだし、何よりリズムが短調で弱い、夢中になれない。しかし、それも一つの様式であって、最近流行りのバンドだって、ちょい前に売れたバンドの音を真似してるだけだ。となれば、アメリカンパンクやメタルの人らが一人悪いわけではない、むしろ、様式として完成されているからこそ、しつこいほどに同じことの焼き直しが許されて売れているのです。
まあ、長い目で通時的に見れば、ロックンロ−ルにここまで変化が無いのは悲しいでしょうが、ある意味ジャンルとしての限界なのかもしれないし、ロックンロールの本当の素晴らしさが直接聴こえる音とは別の次元にあるのなら、表面的な音の傾向だけで、これはロックだ、これはロックじゃない、とか言うのはそろそろ止めにしたほうがいいと思う。

日本のバンドはしょぼいとか言う洋楽好きは多く、B'zあたりがその標的にされますが、日本人が聞きたいのはリズムではなく、メロディだということはコブクロあたりを聞けば分かる。いちいち人が違う耳で音楽を聴くわけないんであって、コブクロ聴く人の半分はB'z聞いてると思いますよ。
私は音楽評論家でもなんでもなく、単にジャンル関係なくポップなものをなんでも聞いているだけですが、日本で流行った音楽をずっと聴いていけば、そういう印象になる。
日本のロックについてはまたいつか書きます。

10年ほど経ったあと、最近までのブームはなんと書かれるのか、なんとなく分かるが、そんなものは読みたくない。

The Velvet Underground / Loaded (1970)

julien2008-01-31

気分転換にたまたま聞いていたのがこれ。どうやらヴェルヴェッツの4枚(正しくは5枚ですが・・・無かったものになっているので)のアルバム中、最も人気がないようですが。
彼らの作品を通して聞いていると、名作とよく言われる1枚目の気だるさ、2枚目のノイズ・コンクレートのような嵐を越えて、3枚目の穏やかさと柔らかさに意表を突かれるので、この作品にはあまり印象が残らないのが正直なところ。
1曲目から穏やかで、最初の頃の彼らはなんだったのかとさえ思う。ヴェルヴェッツは、アンディ・ウォーホールがプロデュースしたとか、ダークな世界を歌う歌詞だとか、激しいノイズサウンドだとかで、要するにパイオニア的な存在として評価されているようだが、1枚目を現在に至るまで名盤たらしめているのは、そんなことではなくて、単純に曲の良さだろう。少なくとも、リアルに衝撃を受けたわけではない僕らにとっては、曲の良さ、音のインパクト以外の部分ではなかなか聞けないし、良いとも思えない。
3枚目での穏やかな方向転換の理由は単純で、有名現代音楽家の弟子でもあったジョン・ケイルが抜けたから。これは分かりやすい。ルー・リードは、素晴らしい詩人ですが、音楽的には結構シンプルなロックンローラーであり、超一流のメロディ・メイカーなので、折り合いのつかなくなった相棒のケイルが抜ければ、それがそのまま出てくる。3枚目はそれなりにやる気があったから、作品としてもまとまっているが、4枚目になるとダれてきて、作品としてはなんとも物足りない感じになる。
この4枚目についてよく言われるのは、ケイルの代わりに加入したダグ・ユールが台頭したせいでダメになったとかいうこと。しかし、どうでしょうね。
ダグ云々ではなくて、リードの問題だと思う。そう考えると、この作品のどこが駄作なのか分からなくなってくる。
"Sweet Jane"はまるでボブ・ディランですが、"Rock & Roll"と並んで素晴らしい出来。他にも美しいメロディの節を持つ曲は多い。ヴェルヴェッツの持つ力からいけば、この程度では(冒険が全く無い)消化不良でしょうが、リードの天才さはちゃんと出ている。
作品としてのまとまりはあまり無い。曲を寄せ集めて作品にしたという感じもある。しかし、そもそも、そういうグループではなかったのか。

人間いつでも全力投球ではいけない。けれど、美しいメロディは生きていく上で欠かせない。空を見ながら散歩して、軽く口笛を吹くように音楽がそこにあればいい。そんなふうに音楽があってもいい。リードはそんな感じでこれらの曲を書いたんじゃないかと思う。
この軽さは、適当だとかいい加減なものではなく、音楽を愛している人の日常そのものなんじゃないか。
ロック転換期の1970年、ニューヨークの風にリードはこんな感覚を無意識に乗せたのではないかと思った。

プライヴェート

タイトルのカテゴリィで「Private」というものを長いこと使っていますが、基本的に個人的なぼやきを書く際に用いていたので、実際のところ、その日にあったことや行ったことを書いたような記憶はあまりありません。
というわけで、意識的にPrivateなことを書くのは初めてに近いのですが、先週、入籍しました。
ここで書いたたくさんの言葉は私のなかから出てきたものですが、画面の手前で今も色々なことを考えて、声に出しています。
言葉が声になって、形になりました。
ここなくしては今は何もない。この場所に対する想いもあって(彼女ならぬ奥さんの勧めもあって・・考えてみればここに書かないのはおかしい)、そのために私的なことながら、こうしてここに書くことにしました。

直接お会いして報告させていただきたい人もたくさんいますので、その時は、よろしくお願いいたします。

Julien こと T.H

色々

はてなで書き初めて何年目でしょう。最近は書くこともなく、めっきり縁遠くなりつつあるはてな。でも、書こうと思うとちゃんと答えてくれる、このように。
今年は、色々、あります。それこそ色々。

はっと気付くと過ぎる時間、目の前にキャンバス、手には筆。
季節の色に合わせて、時期折々に何色で塗るか、ここにはたくさんの絵具。
私の技量はいかなるものか。レンブラントフェルメールの光と影、印象派の溢れる光の粒。
シュールな絵にはすまい。ダリもエルンストもどこか遠くに置いていく。

本年もよろしくお願いいたします。

Without

Withoutは、日本語でなんと訳すのか。
学校では「〜なしで」と教えられている。けれど、それはただ単に「ない」のではない。
ただ無いことと、あるはずのものが無いのとは違う。
初めから無ければ、そこには喪失感なんてものはない。私の手元に煙草がなければ、それはただ無いのとは違う。でも、煙草を吸わない人には、それこそ無いのであって、そこに喪失はない。
Withouutには、Withがある。あるはずのWithがない。それがWithout。そして、Withは、「側に」「〜を使って」などと理解してはいけない。Withはこの手の延長、届く場所、そういう意味の前置詞だ。そう考えれば、日本語での二つの訳など本当は必要じゃなかった。

人の手の長さを、私は普段あまり意識したりしない。手を伸ばした時に分かること。私の手はなんて短い。

Missもそう。失敗ではない。届くはずのところにあったものが、その手から放れた、離れていく。そういう意味。


Withoutの曲を少し

The Beatles / Within You, Without You
Billie Holiday / I Get Along Without You Very Well
Bonnie Raitt / Here Without You
The City / A Man Without A Dream
The Doobie Brothers / Without You
Fantastic Plastic Machine / A World Without Love
The Four Tops / Without The One You Love (Life's Not Worth While)
Marvin Gaye / It's A Lonely World Without Your Love
Petula Clark / I Couldn't Live Without Your Love
The Police / The Bed's Too Big Without You
The Righteous Brothers / Without A Song
Royksopp / Beautiful Day Without You
U2 / With Or Without You


まだ何かを失ったわけじゃないから、歌になるのか。悲嘆なんて、端から側にはない。
こんなことを書いていられるのなら、届ける言葉はまだあるでしょう。