戯言

今更ながら、友人に借りた斉藤環の『心理学化する社会』を読んでいるのですが、とりあえず言えることは、精神分析の方法がもはやいちいち意識されることもなく社会のあらゆる領域において使用されている現在に、こうした形で、その状況自体を世間的に非常によく知られた分析家が問題提起した意味は大きいと思います。

とりあえず、目次と終章を読み終えたので、これから心理学化の例証である他の章を読んでいこうと思っています。それにしても、システム論と精神分析を取り除いたら、社会分析の方法って残されているんでしょうかね。いや、それだけじゃない。「イデオロギー」(括弧付きで言いますが)がないのに、方法だけが一人歩きしていませんか?


ここでも方法論ばかりが議論されていますけど、すると、そういった方法とは別に、幻想として否定された大きな物語が、やはり別の形式でも必要なんじゃないかと思われてくる。松岡正剛がしきりに言うように、21世紀が方法の時代であるというのは間違ってはいないと思うけど、最低限に共有すべき倫理と、顔をどっちに向けるか程度の目標は持たないと、小手先の方法だけで分かった気になって終わりになるんじゃないかと、そんな気がしてならない。

世論調査の結果、イラク派遣に反対する意見が減ったという報道がありましたが、精神分析的に言えば(笑)、状況に反対するってこと自体が個人の内面で負担へと変わった結果、大勢に流れて意見が変わるんでしょうが、勿論、そんな一般大衆なんて当てにする気は全然ないのでどうでもいいです。ずっと反対し続けるのが大変なことで、それがある程度の知識や考え方によって支えられてなければ、みんなが右向きゃ私も右になるのは分かってますから。



ガンディーのことを考えてる時にも思ったけど、やっぱり理想というか目標というか、そういったものに対する信念がないと、迷走が続くだけに終わるんじゃないかと思う。かつては、その役割を宗教が果たしてきて、それが近代以降ではイデオロギーに変わったわけだけど、マルクス主義も衰退してイデオロギー自体が完全に否定されたところまでは分かるとして、じゃあ、何がその代わりを果たすのかを議論しなけりゃどうにもならんと思う。
結局、経済発展という名の金儲けだけを目標にしてバブルにまで至って、結果、若者たちは最悪の世の中だ、なんて言ってる。社会の心理学化はそういう中での、自己を支えるためのツールになってるって斉藤も批判的に言ってる通りに、そんな認識が広まってるだけじゃ、どうしょもないわけで。
かといって、教科書を作る会の連中みたいに、公の復活とか言われても、ノスタルジーに包まれただけのまともな状況認識も出来ない阿呆が世迷言を言ってるようにしか思えない。でも、他に「理想」がないから一定の支持を集めるわけでしょ。どうするのさ。

本当に、システム論と精神分析だけで足りますか?「自由」が表面的には獲得されてしまった現在、公共性の理論の弱点も、目標の設定がないところにあると、私は思うのですけど。



ここからは完全に戯言になりますが、例えば、自分は本を読んで、CDを買いまくって、好きな子のことを考えたり、でも、結果、何がしたいのかというと、楽しいからいいんだよとか思えてきて、よく分からなくなる。いやいや、「遊び」は意味がないから素晴らしいのだ、と、ホイジンガやらカイヨワやらの意見をアタマの片隅から引っ張ってきて納得してしまいそうになるけど、それだって、斉藤の言う自己言及的な「癒し」なんじゃないかと思えてくる。そもそも、そうやって、自分の行動や考えを、いちいち説明したくなるのも、自分自身が心理学化している証拠なのかもしれないけれど。

結局、個人的な問題と社会的なそれを、同じように語るのが不可能なのだ、ということなんでしょうけど、では、誰が社会のことを考えるのかといえば、やっぱり個人でしかありえないだろうと思う。

個人にとっての理想ってなんなんでしょうね。大きな物語を、もはや信じられないでいる私には、考えることも不可能なものなのかしら。
キリストやブッダが、こんな迷いを抱えてたとは全然思えない。