歴史化するということ

藤田省三『精神史的考察』のなかの「或る歴史的変質の時代」において、個人的に衝撃を受けた部分がありました。
維新に始まる明治時代が、思想的・政治的立場の違いに関わらず「立国」という目標が人々に共有されていた時代を経て、日露戦争後あたりから大きく変わり始めたことを、板垣退助のある文章を例にとって触れたあとの一文。

かくて維新は全く歴史と化した。自由民権もすでに歴史の一コマとなり、対外独立への歩みも今漸く歴史となりはてた。

ここにおける「歴史と化す」という言い方、歴史化をネガティブなものと捉える視点に、私は少なからぬショックを受けたのです。


歴史家カーの著作を読まずとも、歴史というものが「ある視点」から作り出されるパースペクティブなものであることは明白といえども、そうした力が社会的にどのように機能しているのか、それによってどのような影響がもたらされるのかということに関して、ここまで自覚して触れている考え方には、いままで出会ったことがありませんでした。


カントもいうように、意識は空間的・時間的なカテゴリーを前提にして成立しているわけですが、そうして保証された認識のベースには、空間と時間の混合形態としての「歴史観」「世界観」が大きく機能しているであろうことは疑いようもないことでしょう。

とりあえず、そうした「歴史観」「世界観」について、今日の時点で定義できることは以下の通り。

  1. 理性も感情も、これの制約から自由に在ることはできない。
  2. これは、優れて個性的な人間において特有のものであることもあり、心性として集団に共有されていることもある。
  3. これは、人或いは人々によって、意識的または無意識的に生み出されるものである。
  4. これは歴史を研究する分野に限った話ではなく、現代を考える上でも常に意識されるべきものである。

人間はたえず過去を歴史化するものですが、これがマイナスに働くときは、大抵その歴史化という行為自体が、人々に気付かれずに行われ機能することが多いということには、要注意すべきなんでしょうか。