ステファヌ・マラルメ / イジチュールまたはエルベノンの狂気

ようやく読み終わりましたが、勿論たった1度の読書で片付けられるようなものではありませんでした。
なんというか、人からの理解をこれほど拒絶した書物も珍しいと思います。詩とは、レトリックで書かれたものですが、この散文詩は、そのレトリックさえもが究極的に放置されているというか、最終的にはギリギリの地点で論理によって読まねば読み終えることができません。
とりあえず、非常に難解であるとだけは言えるでしょう。そのため、彼自身による注釈や。出版した娘婿による解説を含めても100pに満たない短さながら、これを理解するにはその何倍もの象徴主義者たちによる言葉に触れねばならないでしょう。

象徴主義というのはドイツの浪漫主義者のなかから生まれたものですが、最終的にはフランスで完成されたといわれる形式です。
美術においても重要な概念であり、ラファエル前派の画家たち、モロー(前に書いたように彼をこの枠でくくるのは間違っていると思うのですが)、ルドンなどがこれに当てはまります。ただ、美術におけるこれを語るのは比較的容易なのですが、言葉におけるこれを説明するのは、このようなスペースではできません。
要するに、絵画にしろ詩にしろ、それらはキャンバスの上や言葉の繋がりといった、限られたもののなかでしか表現できません。しかし、彼らが表現したいと思うものは、そこに描き切れないものなのです。だからこそ、象徴的なモノや雰囲気を表現することによって、その描き切れないものをなんとか表現しようとします。
例えば、内的な思考や精神の状態、夢の世界などを、好んで表現するのです。
つまり、表現されているものの外に作品の主題があり、それをどれだけ象徴によって表現できるかが、彼らの技量になるわけです。

そして、マラルメはその象徴主義の完成者と言われます。
井筒俊彦の解説によれば、彼は言語化される以前の意識状態を、なんとか表現しようとしたようです(この解釈が絶対的というわけではありません)。
"無"が去って、"純潔の城"が残されるというのは、そうした意識状態の果てでもあり、これがマラルメ的"絶対"なのかもしれません。
私には禅に近いものがあるように思われますが、この物音のしない、時間の止まった"真夜"の言語空間は、タイトル通り確かに狂気を連想させますね。

何度も繰り返し読んでいる内に、読者の内部にはこの空間が入りこんでくるでしょう。それをどう扱うかは、今の私には考えようもないことです。
ただ、ここには言語の存在しうる絶対的な地平が築かれているというわけで、それを知ること自体は、けして無駄なことではないと思うのです。かなりの精神的なリスクを伴うことは確実ですけれど。
ロートレアモンの『マルドロールの歌』と同じく、私にとっての愛すべき危険な書物になりました。