The Stone Roses / The Stone Roses (1989)


リアルタイムで聞けてないながら、これのショックは大きかった。
随分久しぶりに聞きましたが、メロディがいいというのは得で、サウンド自体はこちとらの時間経過、耳年齢上昇に伴って多少は違って聴こえてきても、あの頃の感覚がメロディに乗って思い出せてくる。ここまで名曲揃いだと、何もかもひっかけたままにしそうで、ある意味恐ろしい。もう6年前になってしまったストロークス1stなんかも同じ条件を持ってますが、最近だとアークティックなのかな。僕には関係ないんだけど。

それにしても、イアン・ブラウンの歌はほんとに巧くない、声出てないよとか思いつつ、あんまり気にならない。この声じゃないとダメなわけで。
あとはマンチェとかとそんなに関係ない音だなとも思う。それって要は、このグルーヴ感なんでしょうが、あの時代、あの場所の空気みたいなものなんでしょうか。今の空気がなんだかわからないので、比べようもないながら、音っていうのは結局空気を伝わって訪れるものなので、この音もちゃんと今の空気を吸って流れるんです。耳に向かって。リアルを知らない、少し遅く洋楽聞き始めた者のぼやきみたいなものです。
あの当時も凄まじい作品だと思ってましたが、今でも凄い。何より黒い。
この、どこか疲れていて、それでいてエネルギーが余っている感覚。音楽は、作ろうと思っても作れないもんなんだろうな、と思う。

この頃の日本って、バブル絶頂期で、なんとなく疲れていないようでした。今は疲れてるのに、妙に冷めていて気持が悪い。
乗っかる台がないから、時代に乗る。それはいいと思う。でも、時代時代の場所によるんだ。
今はダメだ、とか、何かを失っている、とか、そういう表現は好きじゃない。ただ、ここにあるものだけで満足しようとみんながすれば、まるで、食事が出てくるのを待っているだけのようで、ただ退屈。欲しいものが、そこにあるもの。遮るのがショーウィンドーやモニターの画面じゃ、洒落にならない。粋って言うのは、そういうところにはないよ。
何もない、ところを荒地と呼べるなら、リアルにそれを眺めた半世紀前の詩人たちは、今よりもずっと楽に想像できたろう。
満たされた荒地、などと言ったところで、なんにもならない。

欲しいもの、どこにある?ローゼズの4人は、どこで何を見ていたのかな。

理想は美しい。見えないから、ここにないから綺麗だ。でも、どうせなら見えるものがいい。
たぶん、星のようなもの。そこにあるのに、手が届かない。遮るのは無限の距離だ。でも、光は届く。
それに線を引く。新しい線。新しい星座が見えれば、それこそ、リアルにここらは荒地になるだろう。
ただ、ちょっとばかり気持がいいから、首を上に上げなくなってるだけで、本当は手をのばせたりするんだろう。


と、まあ、どこかでこういうものを欲しがる部分は必要なのかも、と考えてます。そうじゃないと、僕は喧嘩ばかりする羽目になる。今日も危険な瞬間が2回、それも地元の駅であった。抑えられたので、数ヶ月前のようなことは全然ないです。
それでも、無茶苦茶なのは全然平気なのに、当たり前のルール破りは気になるんです。他の人が乗っているのに、エレベーターの閉まるボタンを押すおっさんとか。一人でいる時に近くばかり見ているのはよくないかもな、と思ったのでした。一人じゃない時は、そんなもの視界に入らないし、そんなに引っかからないのに。