Mylo / Destroy Rock & Roll (2004)


2年程前に話題になったのにまったく聞いてなかったんですが、最近はI-podで外で聞いたりと、割とよく耳に乗せてます。
キム・カーンズの"ベティ・デイビスの瞳"をサンプリングしたものや、延々とロックンローラーの名前を並べた表題曲など、聞いてると様々なイメージが混入してくるものも多い。某有名大学の哲学科を主席で卒業したという人なので、どこか知的な聞き方もできそうですが、そんなことを気にしないほうがいいのかもしれない。

80年代へのオマージュというか、憧憬だらけですが、アンビエント系の音も多く、チルアウトの流れを組んだポップミュージック。個々の曲も良いんですが、とにかく全体の流れが良いです。リズムの散らばせ具合も上手い。
チルアウトとあえて言ったのは、フロアで踊るというよりは、午前3時の疲労と倦怠感のなかで聞いたら気持良いだろうな、ということです。ただ、日曜日の朝とは違う。これは昼間の音楽じゃないと思う。
凄く良いと思うし、この音楽が感じさせてくれるものは分かる。でも、どこか突き抜けた感じはしない。これは時代のせいなのか。


最近はクラブに行ってないので、こういう音の居場所が自分の中でどこかぎこちなくなっています。日常の風景に溶け込みそうで、どこかに齟齬が生じる。「ポップミュージック」なのに、この感覚のずれはなんなんだろうと気になるわけです。
おそらく上の文脈の中で「ポップ」という言葉を誤用してるんだと思う。それは分かる。
耳に馴染むメロディがあればポップになる。でも、J「ポップ」とは違うのであって、じゃあ、僕が好きなポップミュージックとは一体なんなんだろうと思えてきた。
主観的に「好き」ならいいんでしょうが、妙に不安です。
ユビキタス社会が一層進展すれば、この齟齬が消えるんでしょうか。いいや、そんなわけはないだろうと思うが。
結局、音楽っていうものは、「時間」があれば存在できる、ってわけでもなさそうだ。場所ですね。生まれる場所ってだけじゃない。生きていく場所も必要ってわけです。
「ぐだぐだ言ってないでクラブへ行け」ってことですか?だが、それこそ「時間」がないわけで、論理学なジョークを言えば、こうしてかかる音楽は存在し得ないことになった。終わり。