Ravel / Piano Concerto in G major

Samson Francois (p) (1959)

Andre Cluytens / Orchestre De La Societe Des Concerts Du Conservatoire


当たり前のことですが、当時は録音技術など稚拙なものに過ぎなかったし、またレコードというものも酷く高価で、容易に手にすることができるものではない。ましてや、初演される前に録音される曲など、普通は存在しない。となれば、この曲の初演時に聴衆が持っていた感覚というのはどうだったのだろう。
少し想像してみた。
まず私はピアノ協奏曲という曲のスタイルを知っていて、それは管弦楽とピアノによって作られている。一方で、ラヴェルという作曲家がいて、彼はピアノ曲でも、管弦楽でも、従来のものとは異なった極めて洒脱で色彩的な曲を書いている。
そして、その人が、人生の創作活動が成熟に達した時期に二つのピアノ協奏曲を書いたという。そして、それが今度初演される。。

そして、実際にこの曲を聴けば、たった20分の異例に短時間の協奏曲ながら、上で書いたような想像通りの音世界であるし、何より優れた音楽に特有の強烈な魔術がかかっている。当時の聴衆の感じたものを私もできるかぎり感じたい。つまりは「優れたもの」を聴くのではなくて、「ただ期待し待ち望むもの」を聴くこと(ヴェイユとはあまり関係ない)。それが、それを超越した意味で実現されること。こんな幸せな時間はないでしょう。
それが高度な知性と感性に支えられている。こんな世界を知らないで生きていくことなんて、私にはできない。
まして、私が聴くのは、ラヴェルのかけた魔法を全て引き出すかのようなフランソワのファンタジー、クリュイタンスのセンスだ。テクニックが優れていたり、ただ感傷的にロマンチストであったりするだけでは、こんな演奏は絶対にできない。世界は平坦でも、単調で短調な時間のくり返しでもない。第2楽章の美しさを、私は他の場所に見つけたい。