Debussy / Preludes 1er Livre

Arturo Benedetti Michelangeli (p)


ミケランジェリはハンマーの先を斜めに切っていたとかいないとか。勿論、普通ならそんなことしたらまともに音さえ出ないでしょうね。とりあえず、彼がどこの演奏に行く時も自分専用のピアノを運んでいたというのはそんな理由からでしょうか。空間を切り裂くためのナイフのような、鋭利で澄み切った静かな音。それは、どうしても闇を思わせる。
印象派、という言葉のせいか、どうしてもドビュッシーの曲を聞いてると色彩のイメージばかり膨らむ。今日は意識せずに、音と音のつながりや和音にだけ耳を傾けることにした。
思えば、多くの人がメロディというものを愛する時というのは、初めてそれに触れた時ではなく、同じメロディがもういちど再現される瞬間であって、それは少し前の感覚を同時に甦らせるからに違いない。人は耳に馴染んだメロディの先を聞く。つながりは時間そのもの。かつて触れたことのある感情が、甦る瞬間が時間として流れになり、それを何度も繰り返し体験する。あらゆる芸術のなかで、時間と共にしか存在しえないのは音楽だけで、その停止というものは沈黙に他ならない。
そしてドビュッシー。この人のメロディには繰り返しがない。ここにあるのは刹那の積み重ねであって、繰り返しはどこでも約束されていない。それは実際の時間が二度と再生されないように、ドビュッシーの曲は、瞬間のなかにしか存在しえない。そして、それを知りながら私は、それを「繰り返し」聞く。
けれど、それはただ音が美しいからではなくて、ドビュッシーの音楽は時間そのものだから、どこまでも深い闇に包まれている。初めて聞いた時から、この感覚はずっと変わらない。静謐な響き、などと書くのは易しいけれど、本当は瞬間には何も存在しないということを教えてくれる。それは深い闇であり、沈黙そのものであって、私は音を聞きながら、同時に沈黙を聞く。在るということは同時に無いということを。