ポップス奥の細道 〜二日目

今日は昨日のチャックに続いて、この人から。そして、この時期に彗星のように現れた他のオリジネイターたちのもとへ。

011 Elvis Presley / "Heartbreak Hotel" (1956)

012 Elvis Presley / "Don't Be Cruel" (1956)

013 Elvis Presley / "Hound Dog" (1956)

014 Elvis Presley / "Love Me Tender" (1956)

015 Elvis Presley / "Jailhouse Rock" (1957)


神様登場。この人はヒット曲が異常に多いので、まずはこの時期の5曲。
2年間の間にこれだけの超名曲が生まれるなんて普通ありえないですね(その後、ビートルズがもっと凄いことするけれど)。チャック・ベリーと違うところは、ハウンドドッグや監獄ロックのようなシンプルで無敵なロックンロ−ルだけじゃなく、バラードも歌うこと。踊りだけじゃなく、歌、がここにあるのです。でも、それは白人がR&Bを歌ってるのではなく、オリジナルのロックンロール・バラードです。僕は最近それに気付いた。当たり前のことをしながら、それが革命的に別のものになってしまう瞬間。甘くてドリーミンなポップスとか思っちゃいけない。パット・ブーンとエルヴィスは違う。
ちなみに、ラブ・ミー・テンダーの元曲は19Cのものです。でも、そんなの関係ない。すべての歌は、結局誰がそれを歌うかにある。この時代ほど、それを思い知らせた時代はないでしょう。
こういう時は私は静かに、けれどハートをばくばくさせて聞きます。


016 Carl Perkins / "Blue Suede Shoes" (1956)


カール・パーキンスエディ・コクランに先駆けてロックでしか歌えない感情を最初に言葉にした人。
「お前はなにをしたっていいけど、でも、俺の蒼いスウェードの靴を踏んではならない」
クラブで彼が見た光景がこの曲のもとになってるそうです。いつだってさ、その場にいなかったら分かるわけないものってある。だから、家のなかで何を叫んだって、そんなのは何も変えられないんだな。これは史上最初の”マイ・ジェネレーション”でしょう。
彼のグレッチが刻んだのはリズムだけじゃない。そして、それをジョージ・ハリスンは受け継いだのです。そりゃ真似するでしょう。いつだって格好よく見えるものにはね、ちゃんと理由があるんですから。


017 Little Richard / "Long Tall Sally" (1956)

018 Little Richard / "Tutti Frutti" (1956)


チャック・ベリーから男気を少し抜いて、脳内回路を2,3本切って、ギターの代わりにピアノをあげるとこうなる。彼の演奏スタイル、顔面のメイクは何を物語る?彼がゲイだってことか、そんなこと言ったところで意味なし(こればかりですが)。
あと、この人は何を言ってるのか分からない。とにかく叫ぶ、歌が跳ねる。歌詞は物凄くシュール。でも”のっぽのサリー”のイメージはどこまでも強烈。これがバス亭で作られた曲なんて想像もできるわきゃない。つまり、ここにあるのは特別なものでもなんでもないのね。フィーリングはどこにだって転がってる。
それにしても、聞いた瞬間にいつまでもどこかに引っかかるこれはなんなんだ。文字通り、言葉にならない。言葉にならないから、この人はただ歌うんじゃなくて、メロディやリズムからはみ出るものを吐き出すのかもしれない。作詞家が書けないものを歌うのかもしれない。「トゥッティ・フルッティ」がなんなのかなんて頭でいくら考えてもわからんのに、聞けばすぐに分かる。不思議。
ちなみに、オアシスの"Don't Look Buck In Anger"に出てくる”サリー”は言うまでもなく、のっぽの彼女のことです。


019 Gene Vincent / "Be-Bop-A-Lula" (1956)


この人も歌詞がシュールで何を歌ってるのか分からない。バップっていうのはジャズのジャンル名なんですが、結果、今じゃビーバップっていう一つの言葉になってしまった。でもって、彼の髪型リーゼントは不良の象徴にさえなってしまった。
個人的にはこの時期のロックンローラーでいちばん好きな人。声といい歌唱法といい本当にクール。そして、この曲の魔力。何度聞いても飽きない。たまらない。
オリジナルはドリフターズの”マネー・ハニー”。そのリズムをこの人がパクるとこうなるんでしょうか。サウンドも実にジャジーなのに、全然ジャズしてない。この不思議な覚醒感に取り付かれて数年。こういう熱病は一生治らない。
親友エディ・コクランが事故で死に、同乗の彼が重症を負った時、確かにロックンロールは一つの時代を終えたのかもしれない。けれど、この感覚が時代に風化しないのは、俺がこんな文章を書いていることからも明らかじゃない。言葉では「時代は終わる」なんていくらでも言える。条理の「時は過ぎ去る」は間違ってない。でも、現実にはそんなことないんでしょう。いつだって若者は感覚バカじゃないからね。不条理ばかりだ。それは良いことでもある。