逃げられない

刑法っていうと、犯罪がずらっと並んでいて、そこに書いてあることをすれば有罪、じゃなかったら無罪、なんてイメージがあるかもしれない。
でも、実際はどうなのか判断に迷うことが多いから、その解釈が凄く難しい。

たぶんいちばん大変なのは、「何が悪い事なのか」が明確じゃないから。その人が悪いのか、それとも、やったことが悪いのか、それだけで色んなものの意味が変わってしまう。
人は複雑で、そこが面白い。でも、そこが恐い。本当に色々なものが人を動かす。そして、人は傷つけられたり、悲しんだりする。自分が殺されそうな場面で、死にたくなかったらこいつを殺せと言われて人を殺す人もいる。
法は人を守るためにあるのだ、などと割り切ってしまえればいい。でも、そんなに単純でもない。見えない部分に、多くの感情が渦巻く。

刑法の犯罪論体系は、犯罪を、①「構成要件該当性」(行為、結果、その間の因果関係、構成要件的故意または過失)でまず判断して、次に②「違法性」の段階で、本当に違法といえるのかを判断、最後に③「責任」のところで、刑罰を与えるのにふさわしいかを判断する。
物凄く構築的に厳密にやる。だから、相当なレベルで「妥当」な結論になる。
でも、やはり見えないものは多い。だから、刑事ドラマやミステリーが流行るのかと思う。刑法判断は、あんなにドラマチックじゃない。
だからといって、それだけでよし、なんて思ってしまうのは恐すぎる。処罰は必要なものだからこそ、あえて客観的にするしかないのだろう、と思いながらでなければ、判断することさえできない。人は人に介入して、世界を営むしかないのだろう。でも、こういう恐さを、自覚できないという見えない恐さも、ここには取り巻いてると思う。
自分たちのなかの恐いものからは、たぶん逃げることができないんだろう。
なんだか、アドルノを思い出した。