溶け合うもの

不安の中にいると、何もかも手に付かなくなり、自分が好きな世界にしかいられなくなる。
私は逃げた。そして一つずつ好きなものを見つけ、でもそこでも不安だった。この部屋から一歩外に踏み出せば、また同じような恐怖に襲われるのだろうと思っていた。私が呼吸をしていたのは大概、夜の世界であったけれど、イアン・カーティスは「たくさんの眠れない夜を過ごしたと言ってやれ」と歌っていた。しかし、それが逆説的なナルシズムに思えてならず、天上から釣り下がって揺れているヴィジョンばかりで一人になると悲しかった。きっと、泣いた夜の数なら、私は同年代の人よりもずっと多いだろう。最近では、ほとんど泣くことは無い。泣きたくないから頑張ったわけでもないけれど、気が付けば泣かなくなっていた。
それと関係あるように思うことで、少しづつ分かってきたことが一つある。それは、多様に見える世界にも、確かにある一つの源流があって、そこで様々なものが結びついているということ。ただ、それは観念的なものとは関わりがない。所詮は主観的なもの、それも感性的なものに過ぎないのだけれど、私にとってのそれは、バランスの上に成り立つ調和であり、美しさの感覚なのだ。


ぼんやりした不安を抱えながらも、もはや何からも逃げる気のない私だが、それでもこれを素直に喜ぶ気にもなれない。ハムレットは死ぬべくして死ぬ。オフィーリアは発狂するべくして発狂する。しかし、私が見たいのは、結ばれることのない二人の婚姻である。
たとえ、それが原作を地に堕とす稚拙なドラマであっても、あの美しい悲劇がその後の世界の悲劇とあまりに密接に関わる以上、私にはこれを避ける必要性が充分にあった。二つの重なり合う悲劇だが、現実派滑稽なドラマのように醜い。そして、喜べないのは、逃げる気のしない私の傍らからオフィーリアが流されていくように感じるからだ。


私が言いたいことは単純である。それは狂気や破壊に至るほどの感性を理性に内在させること。
それこそが、理性を支えるものとなる。すなわち、近代において分離され、前世紀の後半に批判され尽くすあの理性とは、まったく異なるある感覚なのである。だから、私のなかには狂気が必要なのだ。二人はせめぎ合うのではなく、結ばれる運命にあるのだから。


もう私が何からも逃げる必要がないのは、何かが恐くなくなったからではなく、それを食い尽くすためだ。
私は、与えられたあの腐乱した食卓から、汚される前の美しさを救済したい。
小さな原子の分裂と無数の人を殺戮することを繋げた、あの醜悪で凶暴なメタファーではなく、落ちていく林檎と宇宙の動きを結びつけた、あの透徹なメタファーへと回帰させたい。


ロジックとは、レトリックの変形である。見上げる星空の上に、人々が引いた星座の直線である。