園遊会にて

http://www.excite.co.jp/News/society/20041028210552/Kyodo_20041028a407010s20041028210604.html
id:aruaruさんのところでも触れられているのですが、棋士であり教育委員会委員でもある米長邦夫が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言したのを受けて、陛下は、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について「強制になるということでないことが望ましいですね」と述べられたという。
米長だけでなく、東京都教育委員会が激しく全体主義的発言及び行動をしていることは知っていましたが、陛下としても、この機会に発言せねば、と熟慮された上でのご発言だったのでしょう。憲法上も政治的な位置から外されている陛下としては、あくまで自分の考えを述べたに過ぎないとされるのでしょうが、この意味は大きい。勿論、「大きすぎる」ということにも実は問題がありますが。。。


ちなみに、右の人も左の人も、私は一向に構わない。
例えば、自分がある「絶対者」のために生きているのだ、と考えることは個人にとって大きな意味を持つだろう。誇りになるし、晴れ晴れとした気持ちになるのかもしれない。宗教の効果も同じようなものだ。これを否定しては、何も思考はできない。
一方、世の中に一者などいない、平等な人間による助け合いこそが大切だ、というのも間違っていない。


問題なのは、他人の行動を自分の言いなりにしようとすること、ただそれだけである。政治には、そうした要素が重要なことは承知だ。教育はマインド・コントロールである。法律は、人を律するための規則である。そのほかも同じ。
だが、何より肝心なのはバランスなんだよね。それがわからん輩が多いから、ナショナリズムコミュニズムも腐ったのであるし。
陛下が発言された内容は、まさにそれを端的に語っている。強制にならないことが望ましい、と。強制しなくても出来るものならば、何も強制する必要などないってこと。綱渡りみたいな状態だけどバランスがなんとか取れるなら、飛び降りないで頑張ろうよ、と。


刑法の機能には、自由保障機能がある。つまり、何がダメなのかがちゃんと文章になっているから、それをしない限りは絶対に拘束されないってそういう意味である。そして、文章の内容がおかしくならないように、二重三重に制度が作られている。
法律は国民に選ばれた人(国会議員)しか作れないし、変な内容には、ちゃんと裁判所の審査が入る。
これは歴史の経験から人間がなんとか作り上げたバランス感覚のうえに乗っかっている。
そういうのがわからん人が多いから問題は起きるんだけど、ベストよりもベターでいいよ、って考えることはベストを安易に信じることよりもよっぽど大変だ。

最後に、米長に一言。
一個人としての発言を苦渋のうえでなさった陛下のためにそんなに行動したいのなら、そのふんぞりかえって座ってる椅子から立ち上がって歩けよ、バカ。
ちなみに、私が陛下に敬語を使っているのは思想の問題ではなく、年長の、それも自分よりも遥かに多くの時間を生きて経験された人への敬意であって他意はありません。というか、偉そうになんて俺には書けません、って。で、米長に使わない理由はあえて書きません。人生経験が活きてないみたいで、なんだか哀れで痛々しいけど。