"失われた感覚を求めて" Vol.9 〜Kick Out The Jams〜

julien2004-09-30

60年代後半、アメリカ資本主義の象徴であるモーターシティ、デトロイトに恐るべきバンドが2つ登場する。
一つはイギー・ポップ率いるストゥージズ。そして、モーターシティ・ファイヴをもじったバンド、すなわちMC5。


特に、パンクの雛形であり、実はハード・ロックやメタルの原型でもあったことで、MC5はほとんど神格化されている。
政治の季節であった60年台を象徴するのに、これ以上のバンドはいない。
ただ、考えさせるのは激政治的であることが、ロックンロ−ルのもっとも凶暴な部分を引き出したことだ。
彼らは西海岸で「Love&Peace」と訴える連中を横目に「Fuck」と叫ぶ。
プロデューサーは逮捕、レコードは発売禁止。凄まじい。
今まで見てきた人とは方向は違うけれど、これまた極端なのだ。
とにかく、彼らほど、怒って怒って怒りまくったバンドはいままで存在しなかった。


ハード・ロック、メタル好きな人が、初期のハード・ロック、例えばクリームやジェフ・ベック・グループなどを期待しながら聞いても、大抵肩透かしを食らうのは、ブルーズの色濃く受けたそれらが、そっけないくらいに味付けされていないためである。
例えば、デレク&ザ・ドミノス(クラプトン)の”愛しのレイラ”は後半のソロにこそ凄みがあるのだが、なぜ当時の人々がこれらを「ハード」と表現したのか、後の人たちとはどうにも戸惑う。
それは、ブルーズが、ブルーを背景にするからである。
悲しみを基礎にするからである。


しかし、彼らは違う。とにかくハードで、攻撃的なのである。
これの何が凄いかと言えば、怒ってるのだから、ハードで攻撃的になるのが当然だということを、見せ付けてしまったことにある。
怒っているのだから、平和だとか愛だとか、そんなことを考えることはできないのだと言ってしまったのである。
彼らの叫びの前では、共生だとか連帯だとかは、すべて虚飾を剥がされてしまう。


表現とは、確かに高度な技術であり、それはまさしく人間の文化であり、歴史のなかで積み重ねてきたものである。
しかし、怒りは怒りであって、表現など交える余裕がないのも、これまた至極当然である。
確かに、もっとも大切なのは、怒らねばならない原因を突き止め、それを克服することだ。
しかし、怒りをいちいち表現しなければならないのなら、始まりは永遠にやってはこない。これも確かな実感なのだ。
彼らは、ひたすら怒って、叫ぶ。
怒りを背負う音楽が、こうして誕生したのである。

ロックンロールが、時代のなかで必然的に生まれたものならば、この生々しさをも背負うべきものだったのだ。


彼らは、結果的には解散に追い込まれる。これまた当然である。
しかし、彼らはだんじてバカではない。彼らの怒りが、その知性を超えていただけである。


こう見ていくと、彼らが、後のロックンロールバンドのモデルになることを、やりまくったのがよく分かる。
彼らは、誰の真似も出来なかった。
例えば、70年代ロックは、幻想に敗れて表現へと向かっていったわけだが、これは分かりやすい。
しかし、もっとMC5は分かりやすい。
全力で敵にぶつかるから、負ければ砕ける。
思ったことを、技巧もまじえずに主張する。
解散することなど、念頭に置かない。守ることなど考えない。


彼らが崇拝されるのは、ガレージやハード・ロックを生み出したからではない。
幻想は失われても、怒りは消えないからである。
だから、パンクの原型であるのは当然だ。それは音の問題ではない。
感情が麻痺するのを恐れる人は、MC5を聞いてショックを受けるのだ。これはいつまでも変わらないだろう。

プライマル・スクリームは、なぜ彼らの曲をカバーするのか。これを考えれば、答えは簡単だ。