"失われた感覚を求めて" Vol.8 〜All Tomorrow's Parties〜

julien2004-09-29

ロックンロールが共同幻想(喧騒?)に支えられている時に、自己が孤独であらざるを得ないことを冷静に見ている人もいる。


ブライアン・ウィルソンも夢見た黄金期のポップス。
これを支えたのは、ニューヨークのブリル・ビルディングに集まった作曲家たちだったわけだが、ニューヨークには光もあれば闇もある。
ブリル・ビルから大して離れていない場所に、アンディ・ウォーホルのファクトリーはあった。
ここは流通するイメージをアートの素材やテーマに選ぶポップ・アートの牙城であり、ウォーホルの視線は、表層文化の真実を抉り出すからこそ、説得力があった。よく、ポップ・アートを「ポップなアート」だと誤解している人がいるが、これは間違っている。ポップ・アートは「ポップをアートする」のである。
簡単に言えば、そこに集まった人々は表層に対して夢を抱いたりしない。
表層はネタであり、対象なのである。
だからこそ、彼らの視線は闇へと向かう。ビート文学同様に、夢を見ない。ひたすら、自己を含んだ社会を客観視していく。

闇にこそ、自分たちの存在があるのだ、これは綺麗なものでもなんでもない、俺たちは夢も希望も歌わない。俺たちが知っているのは、自分たちの生のリアリティだ。闇を語らなければ、自分を見れないことに自覚的なのだ。
67年発表の『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』は、まさしく、そういう作品だ。


よく、これは、社会の闇を描いただの、ネガティブなものを表にしただなどと賛辞を送られるが、そんな分かりやすいものだろうか。
けして、そういう言い方は間違っていないのだが、それ以上に、彼らのたたずまいのクールさ、時代のなかでの熱の無さが異常だ。
狂ったようにノイズをかき鳴らすジョン・ケイル、類稀な詩情を持って美しいメロディに闇をのせるルー・リードは、どう考えても普通じゃない。


誰も言わないことだが、おそらく彼らにいちばん近いのは、キンクスのレイ・デイヴィスだろう。
彼らに共通するのは、時代のなかで視線を肥大化させないことだ。
だから、彼らは劣化しないし、イメージに振り回されることはない。
幻想の消滅など問題ではない。端から幻想は幻想なのである。
彼らは、自分たちに正直に、成長していく。

「明日のパーティ」を夢見る少女は、明日にいるのではなく、今日にいるということだ。
今日こそがすべてで明日は闇のなかだが、だからこそ、必然的に明日は訪れ、明日が今日になる。
これ以上のリアリティは無い。
ディランが歌った転落は、このような視点では、ひたすら停止し、コマ送りされてしまう。
一枚一枚の写真のように、時間性を喪失する。
徹底的に時代から自由であろうとすることは変わらないとしても。


彼らは闇でポップを塗りつぶした。しかし、そんな彼らの姿は紛れもない時代のポップそのものであり、だからこそ、自分たちをも対象化できるのである。
これがポップ・アートである。

結局、ポップの本質は、時代によって染まってゆく。
それは否定されるものではなく、否定もまたポップの一部に他ならない。
ポップに幻想を抱いてはいけない。それは遥かに時代に謙虚なものなのだ。
彼らの平熱の感覚は、時代への謙虚さに他ならない。
これもまた、時代が要求した一つの限界なのかもしれないのだが。


それにしても、70年代にパンクがこの街から誕生するのは、やはり必然だった。