"失われた感覚を求めて" Vol.4 〜夢のカリフォルニアと『知覚の扉』〜

同じ65年のこと。
西海岸では、若者たちによる共生のコミュニティが形成されつつあった。
アメリカのみならず、ほぼ全ての社会は家族によって構成される。彼らはこの社会の最小単位を、より自由で開かれた共同体に作り変えようよした。
サンフランシスコは、物事を「シェア」(共有)する若者と花でいっぱいになりつつあった。スコット・マッケンジーはそれを"花のサンフランシスコ"と歌う。
これが有名なヒッピー・ムーブメントで、音楽史に決定的な影響を与えることになる。


私が思うのは、ここでポップの意味は決定的に変化することだ。大衆にとってのポップさはもはや意味が無い。当時の若者たちは、一般性という言葉をヒッピーによって解釈した。
確かに、本当にこれが最小単位になったならば、彼らの革命は成功していたのかもしれない。しかし、家族制度もまた、この時代に変容を始めていたのだ。彼らはこれを家族制度の終わり、新たなるコミュニティ形成の必要性と受け取った。
だが現実は違った。
なぜ、新たなコミュニティが求められたのか?それは、個々人の内面の問題だった。
家族制度が変容するのも、同じ理由からだった。
レノンの個人的叫びが大衆性を獲得してしまう意味もそこにあった。
若者たちは、一人一人が「個人」になってしまったのだ。
問題は、そうした個人的なものを、みなが持っていたことにあったのだ。
彼らは社会のなかで、それぞれ孤独だった。
いや、そんなことはいつだって変わらない。当時の若者が特殊だったとしたら、そういう自分に対して意識的だったことだ。
そういう自分を意識させる空気が確かにあった。
こうして、コミュニティは求められる。同じ悩みを持つものたちの集まりとして。彼らにとってのポップとは、同じことを思う「仲間」たちのそれだった。
若者たちは、「自分たちにとってのポップ」を見つけた。

音楽はそんな感覚を世界中に共有させる。ママス&パパスの名曲"夢のカリフォルニア"(66)に歌われる青年の気持ち。
「ここは寂しい場所だけど、カリフォルニアには夢がある。あそこに行けば、みんなが助け合って生きていける」


同じ年に、この感覚は物理的に強化されることになる。
カリフォルニアのスタンフォード大学に一人の科学者がいた。彼オーズレー・スタンレーはLSD(=アシッド)による幻覚作用の実験を行う。
そこに『カッコーの木の上で』で有名なケン・キジーがいたことが、リスナーたちに新たな音の世界を開くことになった。
ジーは、このLSDトリップを広めるための活動を始める。
ケミカル・ブラザーズの曲名にもある"The Test"、すなわち「アシッド・テスト」である。
会場では参加者全員がLSDを服用、強烈なライトショーの下、聴覚はグレイトフル・デッドによるギグに支配される。
この一晩は歴史を変えてしまった。
ヒッピーたちの共同体にアシッドは広まることになる。
薬物による幻覚作用は、一体感を強烈に強めた。
サイケデリック・ロックは、こうして誕生した。
ファズで歪んだギター、エコー処理などは、まったく新たな音の世界だった。


ビートルズは翌66年の『リヴォルバー』でこれに反応。世界もこれに続く。そして、70年ごろまでこの幻覚が覚めることはなかった。ロックスターの遺骸、廃人たちの姿、変わらない世界と見せかけの平和、安定した自分たちの生活のなかでコミュニティが崩れるのが70年代なのだ。



オルダス・ハクスレーが『知覚の扉』を書いたのは50年代のことだ。彼はメスカリンによる幻覚作用によって、人間の意識や感覚は新たな世界を持つことを唱えている。それがポップになるのが、60年代だった。新たなる世界は、一体感を獲得してしまった。
それにしても、ロネッツの"Be My Baby"が発売されたのは63年。たった2年で、音の世界はここまで変わった。ポップの意味も変わった。