またハムレットか?

私には、人が人に対して、なぜ腹を立てたりするのか分かりません。
プライドと怒りがセットになっているなどというのは勘違いです。すぐ怒り出す人間にプライドなどはないと思いますね。
その人に別のことをしてほしいと望むこと、これは「愛」とか「思いやり」とか「優しさ」などという衣を着せられるものですけど、それが動機であり目的であるのならば、腹を立てたり強くものを言ったりする理由はどこにもないはず。
結局は、自分の感情に流されて、理性の働かせるべき場所で怠惰になっているだけでしょう。腹を立てて行うことは、たいていの方法のなかで最悪なもの。演技でわざとやるのは、勿論計算のうえでのことであって、それは怒りに流されてるようなものとは根本的に違います。だから、その場合、大抵、結果は巧くいくのです。そのような方法を取れる者であるのならば。


だが、それ以前の問題もあります。
なぜ、人は人に何かをしてほしいと望むのか。冷たい言い方をすれば、それはそう望む人間にとって、何らかの得がそこにあるからに間違いないです。
その人間をそのように動かすことによって、なんらかの利益が動きます。この場合は、経済的なものに限定する必要はありません。例えば、その人を傷付けさせたくないため、その人の安全を守るためにあえて自分の思うようにさせるということもあるでしょう。大抵の親が子供に対してしていることは、こういうことです。
だが、これも行為者が自覚しなければ、ただのエゴの押し付けと受け取られても仕方が無いのです。そこに信頼関係がなければ、これはまったくの無意味な行為です。


人に何かを言う時は、このことを自覚したほうがいいと思います。計算的な冷めた人間になる必要はありませんが、これは最低限のマナーなのかもしれません。これを使って人を動かせとかそういう話ではなく、こういう感情の動き、無意識の働きに、自分を任せちゃいけないってことかもしれない。


ちなみに、今日マキャベリ韓非子を読んだから、こんなことを書いているわけではありません。あまりに子供なレベルで動かれると、何を言ったらいいのか分からなくなる。私が多弁じゃなくなるときは、たいてい呆れていることが多いんです。私にはしゃべっているものよりも、しゃべらないもののほうが多い。


無思慮で勝手な「思いやり」や「思い込み」が、人を傷付けることに気を配らなければ、奇麗事をどれだけ言ったって、人は傷付くし時には死んでいくと思う。
自分ってものは、主張することでじゃなくて、逆に自分を削ることで初めて出てくるものだと思う。主張が強い人間、私なんかその典型ですけど、そういう人間は自分を持っているなんて思っちゃいけないと思う。すぐ泣いたり怒ったりする人は、自分ってものが強すぎる。
でも、言論ばかりが跳梁跋扈して、でも、自分のエゴは抑えられないって人はたくさんいます。多すぎ。そして、こう言っている私だって、たいしてそういう人たちと変わらないってことは明白なんだから。
とりあえず正義感などを振りかざす人間がもっとも厄介です。もうアメリカとか、正義、正義のオンパレードで、世界で正義の価値は下がる一方です。夢を見るために使ってた言葉が、こうやってどんどんまがいものにされていく。
自覚している者などごく稀にしかいません。そして、そいつの名が、たいてい政治家というものであることは、けして偶然じゃない。

こういう世界で夢を見るには、純粋なだけじゃいられない。純粋とかそういう言葉を越えて、私はどこかで夢を見ていたい。それはたくさんの人たちと一緒に見れるものであったら、もっといい。一人で誰かを動かしたってなんの得があるっていうんだ。自己満足で救われるのはたった一人、自分しかいない。


と、ここまで書いてから、無性に全部消したくなった。なんで、こんなのを書いてんのかって考えてみれば、私にもこれを書いて得られる得があるわけで、自己満足か、それとも。。。
まあ、消すほうがよほどアホらしい気がするので、そのまんまにしときます。