迫り来るマルティンの影

julien2003-10-28

感情を中心にして色々考えるというのは面白いのですが、近代批判の文脈に沿って行う以上、理性によって抑圧されるものすべてが関心の対象になってこざるをえません。

哲学や思想と呼ばれるものをこの視点から眺め直そうとしているのですが、ディルタイジンメルベルクソンあたりの俗に言われる「生の哲学」が、ヘーゲルを代表とする理性主義へのアンチテーゼとして理論を展開していて、その意味では参考になるし、過去における成果としては立派なものですが、どうも本質規定に関わる認識論的な要素が強く感じられて(要するに、「生こそ本質」といった言い方)、そのあたりはどうにも気になります。
それなら、オルテガの「生ける理性」のほうが、よほど土台として安定しているんじゃないのか。ニーチェは社会から孤立していたがゆえに「力への意志」なんて言い出しましたが、そのあたり大衆の研究をしたオルテガはよく見ています。私は神秘主義を否定はしませんが、言葉で語る気もありません。
要するに、ディルタイの言い方を借りれば、私は「体験」とそれを「表現」したものの関係にこそ注目したいのだし、そこからこぼれ落ちたもの、ウィトゲンシュタインならば「語り得ぬもの」とでも呼ぶものを、どう理解すべきなのか、に関心があるのだから、語り得ぬものを本質と「定義」するような考え方には、疑問を感じざるをえないのです。


人間の認識能力の限界の規定はカント哲学の中心であるし、また理性では認識できないものについても、古今東西神秘主義者たちがつねにその存在を主張してきているわけで("神"として)、以前に象徴についても考えましたが、象徴とロマン主義神秘主義には深い繋がりがあります。神秘主義については、カルト宗教に見られるように、下手に踏みこむと危険な領域なので、あくまで意識と本質論としての扱いに限りますが。


やはり、全体としての生を哲学的に確立したハイデガーを置いては考えることさえもできないような気がします。どうも彼は苦手なのですが、こればかりはどうしようもないのかなぁ。