ざっき

はてなで書くようになったのは、自分が所属(この用法はかなり間違い)していたとあるグループの友人がやっていたからで、ごく単純な理由である。きっかけなんて往往にしてそんなもんだけれど。不思議な話で、MAさんがいなければいまの自分は無いんだな。「アフタヌーンティー」を「見」ながらそう今もそう思う。なお、その友人とは月末に2年ぶりくらいで逢う予定(これは関係なし)。

あの頃はリビングにある古い型のバイオで一生懸命打ち込んでいた(勝手に文章が消去される特別機能付きだったから)。
画面越しに色々な人に出会って、そのうちの何人かは大切な人になり、私はすっかり変わったように思う。変わるというのは、それこそ変で奇妙な言葉だけれど、私には悪いイメージがない。変わろうとする微笑なベクトルを大きくしてくれるような、そんな人達。
人達といっても、それは様々で、それが理由で私は一人悶々としたりするのだが、それでもこうやって久しぶりに日記を書いていると、私はいまの自分自身が嫌いにはなれない。

話を戻して、そう、この日記を書き始めた頃は、かなり遊んで書いていたし、パロディやらメタファやらで実験やっていた印象が今でも強い。今はもう違う、音楽について書きまくっていた(今読むとほぼ全てに赤面するが)頃ともまた違うし、かといって、自分が学んでいることについてもだらだら書くつもりはない。自称選民がずらっとした真面目一色の世界をあえてふざけて茶化して書くのもいいのかもしれないが、それはずっと先にやればいい。現時点では、藝術やらの文化が添え物になる感覚はどうにも理解できない。間違いなく掃除機が必要だから、いつか作ろうと思う。

また、自分は浪漫に憧れながら写実や現実(全部イデオロギィとしての意味)に近い人間だと勝手に思い込んでいたけれど、どうやらそうでもないと思った。たくさんの画面の向こうを眺めながらぼんやり考え込んでいたある姿は、もうここにあったのだ。
あの画面の向こう側へと、泣いたこともあったけれど、いまはどうだろう。
日常を抱き締めるべきだ。時間は過ぎ、積もり、記憶は、褪せながら、突然に鮮明になったりする。
自分は一人だ、と押し付けようとしても、知っているが顔の見えない声がはっきり聞こえたりする。
その声はどこから聞こえてくる?部屋のどこにも誰もいない。それがこの部屋。感情のコントロールはなんでこんなに難しいんだろう。

手は遠くにのばそうとして、掴むものは携帯電話だ。壊れそうなくらいに投げつけたりもするが、落ち着けば、形になったメッセージを僕は打つ。
届く届かないじゃない。届けようとするのもベクトルか。極大にまでなったそのラインも、ほんとうは見える程度だ。目を開きすぎている、僕は興奮しすぎてる。
静かに言葉を作るのは難しい。
ここにいま書いている言葉は誰のためのものだろう。僕自身だろうか、ただ僕はこれを読み返すんだろうか。
メモ、と言ってしまえば簡単なのに、なぜか開かれている。本当は、ある言葉を形にしたいだけ。
それができない、とは、ずっと前に2人で話した。安易に僕が日常口にする言葉は、あまりに非力だ。
本当はこの腕があればいいんだろうに。寝転がったまま伸ばす手を、僕は掴みたいだけだ。

携帯は転がったまま。この画面越しに、僕は冷静になるんだろう。明日も。