救心でも如何?

最近はどうにも世事に疎く、ニュースすらまともに見ないせいか(もっともTVのニュースなどBGMにさえならないのだけれど)、先日あった、そしてメディアが大騒ぎをしている「とある殺人事件」のことを知ったのも今日でした。
某2大雑誌(週刊なんとか春と週刊なんとか潮)は例のごとく、事件の背景をさぐろうとする。なんのためにそんなエネルギーを注ぐのか、注いだところで、受けてはそこから何を得るのか(あるいは得たいのか)さえ、自分にはさっぱり分からない。
事件の概要には興味が無くも無い。けれど、動機などには興味がない。正しく言えば、どうせノイズだらけのまともな情報にはなってくれない。
すぐに「心の闇」などという言葉を堂々と太文字大枠で使う神経が理解できないというか、いつからそんな日本語がごくありふれたものになったのかさえ、気が付けば「ああまたか」などと思う自分自身もバカバカしい。なので、信用しないのです。見たことある人いるのかしら

なんだかんだと法律を勉強している側から、あえて見るとしたならば(つまり積極的に見たいとは思わないが)、動機など、せいぜい情状資料にしかならない。社会から見て犯罪が問題なのは前提として、制度上それは「犯罪者を裁く」(なんとも違和感の消えない観点だが)ことでしかありえず、それからしてみれば、人の内面については、故意や(議論はあるものの)過失が主に問題になる程度で、動機については起訴状の公訴事実にさえ書かない。つまり、前述の政策的な目的を実現するためには、動機はなくてもよいのです。

それでも、人は動機を知りたがる。「ミステリー」小説の大半は、動機が分かれば良いし、2時間ドラマはそれを知るためにみんな見る。それどころか、自分自身、小説やドラマで動機を知るのはたいへんに好きだし、楽しみに結末を待って、何よりも最後に安心できる。
理由なく殺しました、などと言われても、最初は驚きつつ、結局はそういうもの(つまり、一種の「動機」)として受け入れてしまう。動機、動機で息切れ寸前。
しかし、現実はまったくそうではなくて、人間の環境が自然社会含めてぐちゃぐちゃになりつつあることなんかに動機はあるのかしら。

事件も同じ。金が欲しかったから、いらいらしたから、こんなのは一見分かりやすいが、実際はそうだろうか。
結局は、今回のも同じであって、猟奇的だったから驚いているだけで、外観的には殺人事件に変わらない。心の闇なんてものがあるとしたら、どんな事件にも、どんな現象にもあるに違いない。
朝の電車で周りを気にせずに音漏れさせている人々、こんな現象にも闇はあるだろうし、隣で苛苛している自分自身なんて闇だらけで真っ黒に違いない。ローリーングストーンズもびっくりなほどに、くろくろまっくろ、塗り捲られている。


突然小さな近況報告をするならば、今更ながら森博嗣を読みまくっているのですが、この方の小説は動機がよく分からないことが多い。真相は分からないまま、推測で終わる。しかし、潔いというより、その通りだなと思うのです。
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とはいえ、先にも触れた通り、自分自身、それを求めて安心するのだから、きっと、調和が欲しいだけなんだろうと思う。もっとわがままをいえば、綺麗な動機、綺麗な理由、まっすぐな一本の道の上を進んで行きたいだけなのかもしれない。
それならば、闇だとかはじめから曖昧な点を誤魔化すようなことは止めて、明確な説明を求めたい。これは、もちろんありえない理想で、そう思うと、犯罪報道に求める安心など、こんな程度のものか、と寂しくもなる。だから、やはり知りたくない、に戻ってしまうのです。