お久しぶりです。ここ最近はこればかりですみません。

近況を報告すれば、ペース作ってやってます。4、5月に書いたことに修正はありません。
音楽は新譜買ってません。ごくたまにレコード屋を除くこともありますが、何も聞いてないので触れることはありません。とはいえ、音楽を全く聞いてないわけではありません。時間があれば聞ける曲が万単位である。クラッシュやジャムはいつ聞いても、そのたんびに何かをくれるわけで。どれだけ理論的に語ろうが、学ぼうが、根はロックンロールやパンクなまんま。

それと関係するのかしないのか、学んでいても疑問に思うことは多い。概念的な言葉も、そもそも感情の入り組んだ人間を説明するためのものだ。だからこそ、僕はそういう部分をこそ感じたいのだし、それを踏まえて理解を深めたいのだし。つまりは、「分かりたい」のだ。
周囲にちらほらいる理念的な学習にのみ専念できる人達が理解できません。試験に受かることは、そりゃ重要だろう。でも、受かったところで、知ってるだけで将来何をするんだろうか。知ってることと分かることは違う。知ってるだけの人は、自分の頭でそこにないものを見つけられない。つまりは、疑問点を見つけられない。
弁護士は裁判をするだけの存在じゃないはずだ。細かく言って、他の専門職との違いは、基本的な法律の分野が広くて(民事刑事行政全部)総合的に理解しているか否かもあるのでしょうが、実際は訴訟法を学んでいるかどうかじゃないのか。となると、結局、専門的知識は弱いが、裁判をできるかできないかが、他との違いになってしまう。ずっとそうだったんだとしても、それでいいのかと思う。
立法政策的観点も踏まえて、総合的にあるべき姿を考えることもできるはずだ。それは役人任せでよいのだろうか、などなど、考えることはいくらでもある。こういうのは一生持ち続けるだろう。

確かに世界は一見複雑だ。だから、何が起きるか分からない。起きる前に準備できればいいが、絶対に全部をフォローできない。
しかし、そういう時に、大切なのはやはり基本的なこと、人間が歴史のなかで見つけた真実(はありえないから、それに近いもの)を踏まえるしかないんじゃないのか。
そういうのをいい加減にして、書いてあることだけ勉強して、ひいひい言っててもつまらない。僕らは覚えるだけのハードディスクではない。学ぶべき基本があれば、あとはそれを使って考えるのだ。いつも、そうやってきたのだ。法律に限っても、そういう目で基本書や判例集を読めば、自分の頭でひねって考えてきた無数の学者や裁判官、弁護士たちの声が聞こえてくる。彼らは血が通って体温を持った、人間だったんじゃないか。


考えることだけは放棄しない。泣くことも怒ることもある。屈辱で身を震わせることだって、山のようにくるだろう。でも、それでも構わない。大切なものの上に、僕は家を築き、そこで考える。百難百苦、望むところだ、来るならきやがれ。いつだって相手してやるぞ。