ザイリョウ

家族絡みの出来事で思ったこと。
論理、っていうのはやり方に過ぎないじゃねえかと思った。


茶碗を作るにも、当然作り方はあって、勢作過程の順番やらがあるんで。で、それを踏まえて材料に何が必要か、と考えるようになるんですが。
実際のところ、これの逆のことを見失ってる人は多いなあと思いますね。つまり、ある材料と製作過程(論理)は密接に結びついていて、この材料ではこのヤリ方と決まってる。でも、本当なら材料の変化に合わせて論理も変更したりできるものなのに、「材料はこれ」と決め付けられているムードが濃厚ってわけです。
もちろん「茶碗」作りには決められた過程を辿らねばなりませんが、別に「茶碗」を作れ、と誰かに命令されてるわけじゃあない。
もっとも事実は違っていて、多くの人は「作れ」と命令されてるように感じているわけで。

発想を変えれば、何を作るかってことだって、もっと柔軟に、自分たちの感じるものに合わせて変化させりゃいいんです。
となれば、使える材料だって、決められてるわけじゃない。結びつけ方だって、決められたわけじゃあない。ブルースとロカビリーを合わせてロックンロールができたみたいに、材料が変われば、論理も変わり、できるものも違う。きっかけは、感性にひっかかった何かのはずなんです。
まあ、これは当たり前なので、問題は次。


これ、かなり深刻だと思うんですが、材料だって、探さないと見つからないし、ぼーっとしてたら目の前にあるようなもんじゃない。音楽だって、カコイイとかカワイイとか言ってて楽しめるものも大いにあるんでそれでもいいっちゃいいんですが、もう少しいろいろ感じたり考えたりしながら聞いたほうが、はるかに見えるものはあるはずで。
でも、そうはしないし、勉強はつまらないもんだと文部省やら先生やらが親切に教えてくれるし、また、そういった方々は感性なんて金にならないとか思ってるせいで、知識もなけりゃあ、感性もダメ、みたいな人が、メガネ外しても増えてるように感じる。テレビ番組やら雑誌やらを眺めた上での印象なんですが。

となると、「材料もない」ってわけで、これはまずいんじゃないのと思う。


数学を例にすると少しわかりやすいんですが、数学の重要分野に代数と幾何があって、方法として確かに実用的なものだし、使いこなせれば、いろいろと便利。でも、どちらも、そもそもは物凄く視覚的なもので、かなり綺麗なものなのです。基本(中1でやる)なので書くのも恥ずかしいですが、y=ax+bっていう数式は、直線なんですよ。無限に続くぶれのない美しい直線。
となれば、一つの材料にしたって、別の角度から見れば、美的感覚にさえ響いたりする。たぶん、ダヴィンチなんかは、この辺に敏感だったんだろうなあと思う。

こういう味気ないようなものも、結局は全部が材料になれるし、材料って言い方が嫌なら他の言い方だっていいんですが、単なる論理的思考力の育成、とかいう枠で教育するのは、かなり最悪だと言いたいのですよ。


もちろん、茶碗の作り方を知らなければ、どんなに良い材料が集まっても、茶碗を作れないように、やり方、論理っていうものも大切。
でも、材料がなければ、なんにも面白いことはできない。かといって、憶えるだけで材料になるかといえば、なるわきゃない。

教育は難しいですが、この辺から考え直していけば、まだまだ未来も暗くない、って思ってるのです。
論理的なこと(だけ)が賢い、とかいう間抜けなやり方・発想はやめたほうがよいと思う。どんなに論理的に積み重ねても、材料がダメじゃ意味ないです。
たとえば、感情を交えて話すことは恥ずかしいことだ、なんて、つまらんことを言いなさんなって思う。感情と論理は対立しませんよ。感情を踏まえて論理的に話すからこそ人間なんじゃ・・と考えます。もし、それがぶつかるとしたら、それは原理的な問題じゃなくて、単にそういう人が幼稚なだけです。