イキ

世界にはやってられないくらいに野暮で嘘付きな連中が大勢いやがりますが、僕が心の底から信頼できて、大好きだと言える人もいる。そして、ひっそりと綺麗なものも隠れている。
無粋な輩は見なくてもよろしくて。僕には平成の江戸っ子の意地ってやつがあるのよ。


そういえば、僕が少しづつ見つけた銀座のレトロでモダンな素敵な建物たちが、年毎にひっそりと壊されて、きまぐれに立ち寄ると、そこには見る影もないくらいに光を浴びてギラギラした建物になっていたりする。最悪だねえ。
昔から銀座は好きだし、それはあの街が時代に謙虚なせいもあるけれど、もう暗い影に昭和が隠れていることもなくなっていくんだろう。あの不思議な空間が銀座の魅力、なんて思う人も少ないに決まってる。去年、石津謙介さんが亡くなったけれど、シャネルやディオールに負けずに並ぶフランス帰りの日本人デザイナーたちは、その才能よりも、フランス帰りだから愛されるんだろう。もちろん、そんなことはどうでもいいんだけど。


人は、喫茶店という言葉を忘れて、どこもかしこもカフェになっていく。
けれど、そこに屯する彼らは、海の向こうのカフェで、いまよりずっと昔に、熱血で向こう見ずな青年どもがアナーキーな革命話をしていたことなんて何にも知らないんだろう。
カフェで血の話なんて、かなり粋でかっこよいと僕なんかは思う。


まあ、銀座はこれでいいとも思う。たとえば「古いものがなければ、何が新しいのかなんて分からないでしょう」というのは、何百年も前の中国の粋な女性の弁だけれど、何が新しいのかなんてことも、実のところはどうでもいいことになってるのかもしれないから。
それでも、まだ街の中にも、世界にも、綺麗なものはひっそりと佇んでいる。それが泣き虫であったって、僕はいつか見つけていく。いちばん大事なものを見つけた今は、もう何の心配だっていらない。
目立たなくったって、光は当たっているからね。つまり、きらきらひか、ってるわけですね。


温故知新なんて、知ったようにいう気もないので、要は古いものも新しいものも、そこに人を綺麗にするものがあれば、そんなことにこだわらずに大切にすればいい。最悪なのは、隠れた美を見つけることができないような感性のほうだし、平気で古いものをぶっ壊す連中が大勢いるってことだ。まあ、新しいものも、作って見たら中がすかすかの偽装建築なんて世の中なんで、どだい言っても無駄なんでしょうが。
そんなわけで僕の言いたいことも、暗がりの陰翳に美を見つけた谷崎潤一郎を僕が好きだって、そういうことくらい。彼はバカなところも多いけれど、やはり良い男です。


僕としては、人が笑っていると私も嬉しいという人がいるから、今日も明日ももっと笑おうと思う。意地じゃあない。自然です。それが粋だし、僕に流れてる血です。ジュテームとか、アモーレ・ミーオといったところで。