親戚の親戚

というわけで、血族でも姻族(当前)でもない子の家庭教師をすることになった。
その子は芸能スクールに通っていたりするので、世間一般的には美少年なんだろうけれど、関係なく高校受験の指導。
ただ、個人的には、勉強がそういう彼の夢の邪魔に感じるようなものにはなってほしくないし、彼が将来東大に行きたいとかそういうのでもないのだから、勉強に必要な集中力とやる気が、演技をすることにも役に立つだろうことや、段階を決めて、一つ一つやりこなして行けば、半年後には今とは比べ物にならないくらい力がついているんだよ、ということ説明して、今日は終了。
宿題も大量には出さない。そんなことをしてもやる気をそぐだけだし、実際効率の良い勉強は量じゃない。ただ、継続はして欲しいと思って、そういう方針にした。
歴史に関しては、教科書を繰り返し読むことだけを宿題にしたけれど、その際に文章の意味をイメージしながら読む感覚について話した。歴史の教科書の文章なんてものは、お話にならないくらいに味気ないものだけど、読む側がちょっと想像力を膨らますだけで、結構楽しいもんなんだよ、ということが分かってもらえたら、凄く嬉しい。
「なんで、こんなことをしたの?」とか「なんで、この壷はこんな形をしてるの?」とか、無限に想像力は膨らむ。歴史なんてものは、結局、人間そのものを勉強するわけですが、その人間は、いつだって想像力を支えに生きてきたものなのだから。

とりあえず、次回は二週間後。結構、責任重大な気もする。ただ、いちばん肝心なものは伝えられる自信もある。全く偉ぶって言うつもりはないのですが、人にものを教えるというのはとてつもなく楽しいことです。
要は、自分が何に、どんなふうに感激したのかを伝えることで、勉強だって、みんなが思っているよりも、はるかに自由なものなんだ、ってことが肝心だと思う。少なくとも、僕は学校の教師からは、そういうことを何ひとつ教えてもらわなかった代わりに、本や音楽や、あらゆる藝術から、たくさん教えてもらった。知ること、考えること、想像すること、感じること、これが無かったら、人生なんてなんの意味もない。
そして、それを一緒にできる人がいるのなら恐いものなど何ひとつ無い、と言い切ったところで、強がってるだけだ、と誰が笑うだろう。
もし、それを笑われたってかまいやしないが、僕はずっと先のことも信じる。悲しみも怒りも、全部別のものに変えられる。それは、まさしくそれが悲しみや怒りだからであって、喜びが喜びに変わるわけじゃない。涙は乾くけれど、砂漠はこれ以上乾いたりしない。砂漠のような喜びなんて、僕は信じない。
だから僕は、今までのように刹那に全てを賭けるのではなくて、もっと連続した時ってやつに、任せるやり方に変えたんだ。


教えることになった子は、家庭の中でかなり大変な状況にいたりするけれど、だからこそ、彼は強くなれる。そんなのは目を見ればすぐに分かる。僕は、そういう人が好きだし、そんな子に、僕が感じた一部でも伝えられることが、だから嬉しいのだ。
人間は、本当に面白い。素晴らしいです。とりあえず、今年も、全力で楽しみながら生きてみようと思います。
野暮で無粋でくそったれなこと(人)もたくさんあるだろうけれど(ホリエ騒動とか)、気にしない。大切なものや人を失うことだけが恐いです。だから、裏切らないように、大好きな人達に負けないように、もっと好きになれるように、やっていきます。これが抱負。