物語はやはり終わってしまったのかな。近視眼的な態度が論外なのは当然とはいっても、それはしょせん視点の問題にすぎないわけで、とどのつまりは個人の問題で。


今は改革という言葉が台本のようになって社会の視点を決めているけれど、あれは夢ではない。結局は、みんな盲目のようになって手を引いてくれる人にすがっているだけ。
でも、その人は数字で決定されたヴィジョン(すなわち合理・効率化)を持っているに過ぎないから、人々が漠然と期待しているような社会へと導いてくれるわけでもない。
勿論、目的地を定めないで旅行に出かけることがありうるとしても、瞬間瞬間には自ずと方向が定まるものだ。時間は一方向にしか進まないから、いつだって止まることも、向きが定まらないこともないけれど、それならば、なおさら行き先は具体的に決まっていないと、単なるカオスにしかならない。
しかし歴史的に見れば、明確なビジョンでもって先に進んだ時代なんて、ほとんどなかったかもしれない。改革が目標とされ、優れた指導者によって社会の方向性が決せられた時代も、目の前には具体的な課題があった。だから、医者が患者の病状を確認してから治療を施すように、理念とは無関係に対処法も定まる。もちろん、そこにはずば抜けた知識やひらめきが存在してはいたのですが。


ただ、それとは別に理想もあったし、未来像もあった。いましていることがそれとは異なっていても、それに向けて社会は進もうとすることはできた。
なんだろう、かつてと何が違うのだろう。人はあまりに多くの失敗をしすぎて、それによって多くの反省を抱えすぎたからなのだろうか。
それもあるだろうし、つまりは、そのことから理想像などを作ることさえできなくなっているのかもしれない。思想家も作家も音楽家も、具体的なイメージを生み出しにくい状況にいるのは間違い無い。市場も拡大しすぎて、全ての人に向けられた個別的なものを超えた価値を作ることは困難、むしろ不可能になっているのかもしれない。できたとしても、某国の映画のように、人が持つものの表面をさらっただけのものになってしまうような。


それだからなのかもしれないけれど、どうしても過去の人々が夢見て共有していたような感情に触れたくて仕方がなくなってしまう。そこには、すでに価値観としては失われたものかもしれないけれど、現在をただ批判するだけではなく、現在を踏まえながらも、それを越えて先へと目を向けさせるものが確かにある。
ただの懐古趣味とも思えますが、私自身その時代にはいなかったわけだから、やはり「ないもの」をねだっている部分があるんだと思う。


思想に関して言えば、いまのそれがまるっきりダメだとか言うつもりもないながら、結局はスケールの小さな、個人主義にしか立脚しえないもんだとは感じるわけで。つまり、「物語」に代えて、自由な個人を基礎にして思考しているというか。そこから、連帯だのなんだの言ってるとしても、じゃあ、政治にしろ経済にしろ、社会のインフラとしての制度についてはどうかと言えば、言及も思慮も乏しい。何より妥当性も具体性もない。社会の改革なぞを思うなら、最低でも資本論くらいに社会の分析と対処法を示さなければ、しょうがないと思うんですが。
結局は、平和なり自由なり、近代に作られた概念を再構築しないかぎりは無理ってことで。だけど、法も経済も、文化もすべてを踏まえて、具体的な新たなヴィジョンを提示できる人間なんて存在するんだろうか。
いつも時代には、カントやらマルクスやら超越的な思考をする天才がいて、その人達が考え出した視点が歴史に方向性を与えたことは、歴史を学べば誰だって知っていることですが(否定したら歴史学自体が成立しえなくなる)、今はいるんでしょうか。
優れた専門家はたくさんいますが、思想家とはそういう存在じゃない。

ただ、結局は、そうやった誰かに頼っている時点で自分がいちばんダメなんですけどね。