存在の耐えられない軽さ

昨日は友達と飲んでたんです。そして今年は失敗したらしく、来年は本当にライバルになる。
ただ、それとは別に彼の現在の状況、特に気持ちの面や恋愛について話してて、こいつの良いところも誰かにとってはとんでもなく重いんだろうと思った。
「僕には二つの面があって、それから見るとみんな中途半端になってしまう」というのは、理屈で見れば、自分自身が強すぎないの?と思う反面、可哀想にもなる。まあ、僕だって変わらないけれど。
内容は書きませんが、こいつは間違いなく見えないところで泣きまくってるだろう、本人は自覚してないけれど、僕はそういうところを見るたびに切なくなるし、その分だけ、こいつを友達として好きなんだなといつも思う。
一つだけそれはちょっと・・と思うのは、上昇志向が強すぎるんですね。要するに客観的な評価基準というものは存在するし、世間の大半はそれ以外を見ない(見れない)、だから夢を適えるためには、手に入れないといけないものはあるってことです。それって、ステイタスと金のことなんですが。
確かに、言ってることは物凄く合理的だし、必要悪というよりもむしろ当然のものとして思う、思います。でも、僕にはそれって政治力学の話であって、自分の夢や感情と絡めるものなのか?と思う。僕の場合は、ランボーのような生こそが憧れて同化すべきものだという想いがいまでもあるし、それは上昇志向や、ステイタス、金こそが唯一の基準、なんてこととは無縁であって。
なぜって、ステイタスも金も、刹那的な瞬間には存在できませんから。生を燃やす時に、客観的な基準なんてものは無意味。それらは想起のなかにしか存在しえない。
例えば、音楽を聴く時、小説と対話する時、答えの出ないものに思考をめぐらす時、誰かのために涙を流したりする時、これらとステイタスは本当に無縁。環境作り程度にしか反映されない。
ステイタスも金も重いのに、瞬間にあるものは全部ずっと軽いものだ。だからこそ、どんな時だってそばにあるんだろう。その分、自分自身がどんどん重くなる。外側に溢れる。俺は名前のないようなリアルな感覚しか信用できないよ。客観性なんてものは、自分のなかのハムレットに任せればいい。本当は、二人で一つだろう。