おいで

言葉にすると確実に何かを誤魔化してるな、と最近ますます思う。
もともと遠まわしに表現するのは好きだし(というより、そういう技法を詩人から教わって立ち直れた感が記憶にある)、何より感情をストレートに表すことを極度に嫌っていたから、ありのままに嬉しい、ありのままに悲しい、なんてものは無いものだと今でも思っている。
とはいえ、笑っていても心はどこか冷めている、なんてありふれたつまらないことを言いたいのではないけれど、感情はたいてい多楽章でできていて、途中には必ずアダージョやラルゴがあるものだし、アレグロで突き進む時も、最後にはたった一人でカデンツァを演じなければならないんだとも思う。
あ、上で書いていることは、「わざ」とクラシックに喩えているのではなく、そもそも14歳までクラシック以外はほとんど聞かずに育ったために、感情の構成が毒されているのです。
そして、私はようやく第二楽章を終えて、第三楽章に入ったばかりだという気はする。そんな意味では、確実に夏は終わったんだ、と、涼しい風を感じながら思ったりもする。9月があっという間に終わり、春はまだ遠い。そして、いちばん不愉快なことに、私は来年の春を待ち望んではいない、今年の春を思ったりする。
春の終わり、長い梅雨時の闇を覗いてしまったようで、じめじめとした湿気がいまだに乾かない。


そして、これらもみんな言葉。仮面を被って、名前を偽った顔たちが、暗いホールで蠢いている。でも、映像は鮮やかだ。表情の消えた声達が、おいで、と手を伸ばしてくる。だから?行くわけにはいかないでしょう。ただ、地獄のようにこの2,3日は確実におかしい。
たぶん、喋りすぎたせいだ。