水と泥

julien2005-09-29

どうにも先週の疲れが一気に来てる感じで、気分が乗らない。まだ学習が甘いところをやればいいのに、既習の民法やらばかりやってる。一般的にはそっちのほうが難しいだかで客観的には問題ないんでしょうが、なんだか逃げが入ってる感じで複雑な心境。夜になったらそっちやろう。
とりあえず今日はレック休むことにした。阪神優勝の日に行くわけにゃあいかねえや。

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大学時代の友人から電話があって、卒論指導のH教授の「誕生会」を来月やるとか。
「は?教授の誕生会・・?」
あ!っと、そういえば去年もあったのをようやく思いだしました。
しかし思い返しても、いい印象がまるでない。というのも、あの先生の周辺はハーレムのように綺麗な女学生たくさんいて、「絶対に手を付けてるだろう」感がひしひし。しかも、そのほとんどが、例外的に俺が嫌なタイプばっかりなんですねえ。斜に構えた傾城美人ばかり。なぜだ?
とりあえず、男の俺などはいてはいけないような感覚にさえなるうえに、俺とあの先生の相性は、互いに感じているほど最悪レベルに限りなく近い。表面上では笑ってても「こいつは嫌いだ」というのが自然に出てきて気分が悪い。
加えて、その取り巻きメンバーも、3人は仲良いんですが(だからこそ誘ってもらえるんですが)、他とはどうにも最悪な雰囲気。これまた笑ってるのに互いに嫌だっていうのを実感させられるわけで、あの感覚で長時間いるのはたまらなく応える。

まあ、まず行きません。行っても、ひたすら煙草吸ってるだけだろうし。そういえば、俺って、他学部の友人ばかりで、所属学科にはほとんどいないんですよね。。


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そういえば、昨夜友達とメッセしていたら、自分が泥から生まれてきたことを久しぶりに思い出した。加えて、あの小説(紅楼夢)を途中で読むのを辞めてしまっていたことも思いだす。
本当に男は泥まみれだ。だが、悲劇的なのは水から生まれる女性のほう。美しく個性的、でもあまりに残酷で悲しすぎる。あの小説の惨さは言葉になどならない。
主人公・賈宝玉の駄目さ加減も凄まじい。彼は優秀な頭脳と抜群の教養、女性のような美貌を兼ね備えながら、ほぼ何もできない駄目男の典型例。デカダンを通り越えて、男連の俗悪ぶりと女性の美しさ、恐さ、悲しさを表現し切った驚異の作品。その割に、作品は最初から結末の全てが予定され、最後までひた走る。しかし、絶望でさえ正面から語られることはない。だからこそ、余計に悲しい。それにしても、なぜ悲劇は予定されているのだろう。


私は大長編にはいつも惹かれながら、けれど、読み終えたものもどこか途中で止まったままのような感じになる。
一部から全体を想像するのが本当に楽しく、なのに、どこか果てしなく切ない。それは結末を知っているからだ。
源氏物語失われた時を求めて、ティボー家の人々、そして紅楼夢も。


ある時点で、作者も読者も時間を見出す。プルーストのようにそれをテーマにしなくとも、時はどこかで見出される。
そしてあの視点は、実際は日常にもある。小説の居場所もまた同じ。私には他に場所を知らない。崩れ行きそうな瞬間も、ある一点に向けられているのなら、私も小説を書き始めたりするのだろうか。見出すことで救いだされるものは、山のようにあるのだろうに、実際は何もかも忘れそうなままに過ぎ去るのだ。
今は視点が欲しい。瞬間に奪われる前に、瞬間を奪い去る視点が欲しい。
悲しみも見出されれば、どれだけ楽になるのに、いまだにどこか苦しいままだ。次の人を私はまだ恐れている。愛せるものか、愛されるものか、と信じようとする。それで平然としていられるようになった。なんの不自由もない。不自由に慣れたということだ。それでも、超越したい。
時間泥棒はどこへ行った?ほら、ここにおいで。いくらでも持っていくがいい。


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話変わりまくりですが、阪神優勝!!最初から最後まで試合見てました。実は今年初めて。
東京で阪神ファンを三代もやってるウチの家系は変なんですが、85年はほぼ記憶になく、92年の2位の時から目覚め、2年前の優勝には泣いた。
今年は素直に嬉しい。冷静に味わうような感じ。
ただ、スタンドのどこにも井川がいないのが気になったけど。
とりあえず、これで少し落ち着きました。