政治運動と刑罰について。

まず、雑文の割にバカみたいに長くなったので、革命を志すような人は読まないでください。不快になるだけかと存じます。かしこ


法的に言えば、政治運動は表現活動そのものです。そのため憲法21条で保護されます。
しかし、刑事権と政治運動の自由は当然のようにぶつかる。
よく政府や経済システムに対する運動というものを見ますが、それ自体は一向に構わない。
ただ、闇雲に批判するのもどうかと思う。というのは、現在の社会制度は、歴史の過程で人々が勝ち取り、改良を加えてきたものであって、ベストとは言えないもののマストを常に目指してきたわけで、ちゃんと目的なり趣旨なりがあって機能している。
なので、政治活動を取り締まる刑事権力のことをすぐに表現に対する弾圧だと言うのも、ちょっと極端です。なぜなら、封建制が支配していた時代は、国家とは民衆のものではなく特権階級のものでしたから、当然に刑事権が保護するものも、そうした一部の人間の利益に限定されていましたが、現在はそういう社会ではありません。
つまり、刑事権が守ろうとしているのは、刑法に言う法益(法によって守るべき重要な利益)であって、国家体制そのものではない。
どうにも、民主主義だけじゃなく、現行の制度を理解してない人が活動してる気がします。「国家は敵である」というのは、どこかの国みたいに名前だけの民主主義だったり、かつての封建制時代の話であって、現在の国民は主権者ですよ。つまり、国家そのものです。政治家や資本家を敵と見るにしても、選挙で選ばれない限り、日本では権力持てません。つまり、客観的に政治家が敵なわけないんですね。また、資本家を潰してごらんなさい。失業者増えますよ。どうするんですか。社会の大勢は怒りますよ。
ちなみに、官僚が強くなっているのは、政治家が専門的な勉強をしないバカだからです。


これが理念的だと批判してもいいですが、こうした理念の上で制度は作られている以上、現実にもそうなってるんです。機能しないのはね、投票率が低いからですよ、まじめな話。
さらに、法がそのように規定している以上、裁判所もそれに忠実に従って裁判を行っているのであり、たとえば刑事権の濫用は絶対に許されていない。違法に集めた証拠の証拠能力が否定された判決も近年に出たくらいです。
つまり、客観的に見て、明らかに刑事権に誤りがあれば、それは非難されるように制度ができている。ここで、その制度の厳密さを語ることはしませんが、嘘だと思うのなら、憲法31条〜40条及び刑事訴訟法を見ればいいのです。


では、なぜ表現の自由が取り締まりの対象になるのか。
まず、憲法上でも「公共の福祉」のために自由も制限されうる、といったことは原則になっています。これは当たり前の話で、どれだけ自分が音楽を聞く自由があったり、また近所に騒音を撒き散らす行為が表現として優れていようが、近所のことを省みずに騒音を撒き散らしたオバサンが逮捕されるのは当たり前の話でして。
そして、この公共の福祉を守ることは、刑法でいう法益と同じなわけですから、警察に取り締まられる人々っていうのは、確実に法益侵害をしてるわけです。

あと、もう一つ重要なことは、刑事権は、法律にない罪で人を裁くことは絶対にできません。こういうことを行った警察官などは「特別公務員職権濫用罪」で逮捕されます。なので、何をしちゃいけないのかは刑法見れば書いてあります。そして、この中に、戦前の治安維持法にあったような、無茶な制約は一切ない。

つまりね、国家の暴走を許さないとか、反資本主義だとか、どれも素晴らしい目標だとは思いつつも、ではその理想のために、他人に迷惑かけていいと思ってるのかとそういう疑問があるわけで。
大抵、そういう言論のなかには、自分たちの理想を掲げるあまり、他人もそれに同調すべきだという感覚があるような気がしますが、そんなわけはないんですね。
ニューオーリンズの暴動を見ればいいんです。あの犯罪者たちは、みな差別され、資本主義の犠牲者ですよ。でも、理想なんて、そこにはない。
大抵の革命やら反政府運動は、理念的なものではなくて、「食えない」という現実的な問題が引き金になってるのであって、それ以上ではない。優れた指導者たちが、理念をもってその力をベクトルに変えたのであるし、大抵のそうした指導者は、権力の座に着くや否や、単なる権力者と変わらなくなった。ただし、彼らは秩序を作った。それが制度なわけです。
ちなみに、メッテルニヒは、フランス留学中に見た革命暴徒の暴行でショックを受けて、反動政治家になったんです。俺には、その気持ちが分かる。


今の社会制度がどれだけ腐って見えても、過去にくらべれば遥かにまともなのは明白です。集団行動したって必ず捕まるわけじゃない。表現の範囲内ならば、問題は起きていないはずです。そして、問題が起きる場合も、きっちり法定されている。
となれば、現在の制度内で逮捕者が出るというのは、よほどのことをしているからです。無関係に巻き込まれ、犠牲になっている人がいるからです。社会変革のためと崇高な目標を掲げても、同じ人間を泣かせることに意義などないし、世界の大半の人は同調しない。そんなのは表現とは言わない。単なる自己満足です。

要するに、国家というものを見誤ってるんです。国家は、制度上も政治家のものでも資本家のものでもないです。日本で選挙権が戦前のように制限されてますか?要するに、海外の、それもいまだに支配的な制度が存立するような社会と日本は違う。個別的に考えないと意味ない。そういった違いを踏まえねば、そういった旧態依然とした国家の変革もできません。要は、戦略も戦術も、非情なほどに緻密にやらねば負けます。それには、まず制度の持つ長所くらいは理解しないとダメでしょう。


カオスに憧れるなんてバカげています。俺は、社会に満足しているわけじゃないけれど、それが持つ大切な部分は理解しようと思う。人類が苦労して、多くの血を流しながら少しだけでもまともにしてきた社会や、そのための制度がある。それでも変える必要があるのならばその制度を理解し、欠点だけじゃなく長所も見据えた上で、問題点を見つめ、現状に合うように修正することしか方法はない。
俺のことをピンク色した奴だとスターリンなんかは言うだろうけれど、俺は社会の欠点だって理解しているし、変える必要性があることさえ自覚している。でも、社会全体に関わる問題にいちばん大切なのはハートだけじゃない。他の人、それがたとえ「敵」であったとしても、その立場を理解すること。その上にたって考える知力だ。よって、近眼的な言論には反吐が出る。俺はそういうのを一切支持しない。しないどころか、そこで被害を蒙る人々を守ることで、反発する。俺には、社会はある抽象的な権力構造ではなく、あくまで多様な人々の暮らす生活そのものだとしか思えないんで。それこそ、俺が保守俗物であることの誇りですがね。



おまけに恐ろしい話をしましょう。
実は、選挙権を公務である、とする説もあります。つまり、国民は主権者であると同時に、立法機関(国会)を選ぶ機関である、とするのです。よって、その機関の権限として選挙権を位置付けます。
これに従うとどうなると思います?選挙に行かないのは怠慢になります。つまり、強制です。で、その結果、日本の政治は悪い方向にも良い方向にも、変わることは間違いない。投票率が理論上100%になりますから。
この説は、権利を国家が強制することになりかねず、支持はされません。。が、ある一面で民主主義を機能させることになるのは間違いない。恐いですね。自由は諸刃の剣なのよ。

そういや、よく「選挙に行かない権利」とかバカなことを言う人いますが、もう少し勉強してほしいですね。権利、というのはそれを保障する前提あってのことですよ。そして、前提が主権者としての国民であるのだから、そんな権利あるわけない。行きたくありません、という個人の主張でいいのです。そして、それはとてももったいないことでもある。まあ、まともな政治家いないから選びように選べない、という気持ちは分かります。