月夜と☆と電信柱

julien2005-07-16

いよいよ夏休みです。。学生さんは(;´Д`)
休日と無縁(休む時間が無いと言うのじゃなくて、精神的というか、リズム的に)なので、「へー、よかったねー」的な感覚が支配すると言いたいところが、少なくとも、私が知る彼彼女たちの世界では凄く大変そう。小中高生そろって、よくもそんなに勉強するよね、とか自分のことは放り出して思ってしまう。
有名校の難易度って上がってるんだろうか、とか思うのは、私は中学受験して母校に入りましたが、そんなに勉強してた記憶が無いからです。やればできる、と言われればおしまいかもしれませんが、本当に嫌だったのは小6の冬休みくらい。小5の夏休みなんてアメリカ行ってたし、中野にあるY谷O塚に入ったのも、確か小5の冬だった気が。
今でもあるのか知りませんが、そこは志望別にクラス分けするのでなく、準会員と正会員という名称で格付けするという今考えるととんでもない仕組みで、しかも、偏差値で50後半はないと準にもなれないという選民思想の表象。まともに勉強しない私は当然に準会員。
ちなみに母校は都内の私立だと7番目くらいのとこで、新御三家にぎりぎり漏れると言う半端さ。偏差も65までいかない。それが、今は高校だと70近いという話で、何を見ても超難関校。ウソみたいだ。やはり状況も変わってるに違いない。
よく感じるのは、10代の段階で、既に信じられないくらいに格差が生まれていて、将来はどうしようもないほどの実質的な階級社会になってる気がする。ドラゴン桜みたいなドラマが出てくるのも、その辺が影響してるんでしょうか。
ただ、努力した奴がそれなりに報われるというだけならそれは公平だろうし、まあ当然としても、その際の価値評価とか判断が、とてもいびつなものになってるとも思う。
感じることを数値化できない以上、偏差値のような数値化できるものに頼るしかないっていうのは、合理的なのかもしれないし、ずっと以前から問題視されてきたのは知っていますが、それなら、もう少しなんとかならんのかとは思います。
少なくとも、数値化できるものしか求めないような感覚が、少しづつ当たり前のものになってしまうのは、世界をとてつもなく醜くしてる。
たとえば凄く成績のいい子がいるとして、でも、人は「彼は頭がいいから凄いよね」とか言ってて、でも私は「彼はすごく綺麗な目をしてるから好き」と思ったりする。
私にとって世界が綺麗に見えたのは、高校をさぼって街を一人で歩いていたり、本を読んだり、絵を眺めたりしてからで、あんな数値を追い求める場所ではありませんでした。
放課後の夕暮れが好きでした。自転車で川べりを走っていると、なにもかも闇に消えていきそうで、でも、私にはすべてがあるように思えた。
ちなみに、当時の関係者がいたら言っておきたいんですけど、私は不良じゃなく単なるつまらん軟派であって、喧嘩とか万引きとかしていませんので。イタ電と胸倉つかんできた馬鹿野郎を撃破したせいか、変な噂が広まって最悪。結果、一部の大好きな先生方に迷惑をかけすぎましたm(_ _)m
退学は嫌なのでテストだけは受けて、大好きだった古典や世界史はトップでしたが、そんな結果は嬉しくもなんともないから、褒められたり嫉妬されたりしても、ただ悲しかったな。なぜって、私には古典や歴史の世界にいるのが楽しかっただけで、それがいろんなものを感じさせてくれていただけで、それをなんて下らない連中だろう。結局、今でも私の一部になっているのは、数字の結果じゃなくて、その時に感じたものだけです。
んー、勉強することが無駄なんて、少しも思わない。そいつらが私にくれたものも、確かに大切なものだったから。
ただ、それでも、子供たちには「時間はね、これからもいっぱいあるよ」とかね、そんなことを言ってあげたいとは思うな。でも、たぶん言えない。
諦めの境地でしょうが、言われても分からない人には、言葉は届かない。それが恐い。臆病なのは変わらない。
散歩してるだけの私は、そんなふうに苦しんだり悲しんだりしながら、一生懸命に生きてる人に逢えるのが嬉しいだけです。そんな瞬間に言葉なんて要らない。そばにいる、たったそれだけで分かるし、感じる。
人を、数字とか言葉で理解するのは好きじゃないです。子供の頃に、テグジュペリと宮沢賢治が教えてくれたことは、今もやっぱり変わらないよ。