上で書いたことと関連して思うこと。
私は制度の外側から社会の改善を求める動きを、否定しようなどと思いません。ただ、自分自身はその内部に入る以外の選択肢を選べないでいます。
「制度」というものに深く関心があります。歴史を学んでも、中学や高校レベルでは、それを制度という視点で眺めたりしません。そこにあるのは理解ではなく、制度に貼られた名札を覚える作業に他なりません。
歴史に存在するのは、結局、人間でしかありません。環境のなかで、それをどう理解し、どう制度化し、どう外部を表現したかの繰り返しです。
アダム・スミスが現れるまで、世界は経済という視点を知りませんでした。現在の世界が、その視点を軸に動いていることを思えば信じられないほどですが、ずっと素朴でした。ですが、そうした素朴な視点もまた、有効であることは言うまでもありません。結局は、人間は歴史のなかでより多くの視点を持ってきたということで、今はそれをいかに使いこなすかでしかない。
制度もまた、歴史のなかに生み出されてきたもので、民主主義さえ、ギリシア人の特殊な環境が生みださせたものでした。しかし、現在は「正義」の代名詞にさえなっているそれも、古くはローマの共和制及び帝政のまえでは価値を発揮することもできず(むしろ弊害ばかりを声高に主張しているようだった)、近代になるまで忘れ去られていました。様々な状況や、そこから生み出された価値観が、それを価値あるものへと構成し直し、現実化したのであって、そこには制度への深い理解と省察なくしてはありえませんでした。
少なくとも、私は安易な改善策よりも、従来の制度のほうに対立する相手方への充分な配慮さえをも感じるし、それを踏まえたうえで思考したい。断じてアナーキズムは嫌だ。そこから必然的に生み出される無秩序を理論で正当化する暇があったら、それへの対策を立てた上で魅力を主張して欲しい。
いつだって弊害は生まれるけれど、まずは、それを生み出すものの仕組みやそれがもたらすメリットを理解したうえで、対策すべきだと思う。不可抗力のように襲い掛かる社会の牙を、大正期から昭和期への恐るべき変動を思う時に感じずにはいられない。


大好きな仲間たちといる時に感じる陶酔がいちばん恐ろしいです。でも、外側には全く異なった人々がいることを忘れたくはない。一般ルールも知らんようなおっさんと電車の中で一緒にいたりするときに、そんなことを思うと物凄く不快ですが、それが生きることの責任なのかと思います。今のこの流れる時間のために亡くなっていった人たちのことを思うと、当然だとも思えるのです。こんなことを考えてるのも、周囲の人にとっては重すぎるでしょうけど。。ただ、笑ってても、それに流されてるだけなのには抵抗したいな。いつ死んでも後悔しないように。もっと世界を楽しくしたいです。大好きな音楽のなかにいる時間みたいに。無理かなぁ