ようちえん

例の事故によって一気にメディアからは消えた一連の中国報道に関して。
ネット上に溢れかえるライトウィングな発言。勿論、どのような主義を持たれようが結構です。愛国がすなわち悪などとは思わない。しかし、議論が雑と言うか、なぜ表層の論理だけの主張ばかりなのかは意味不明ですね。
相手の立場が自分とは違うと言う絶対的な事実を抜きにするなら、論破しようなんてしないことです。それでも議論をする実益はあるという事情があるのなら、まず争点をはっきりさせること、どこに意見の対立があるのかの模索には慎重になるべきです。議論にはルールがあります。相手の矛盾を見つけて、そこを突くだけの議論は、単に相手をあげつらってるだけで、自説を説得することとは違います。ろくろく経済や政治も知らんで、国益だとか述べないでもらいたいです。少しは、訴訟法あたりを勉強してもらいたいですね。
あと、政治が絡む問題では、そもそも論破しようなんて姿勢が間違っている。外交の問題になりますが、まずは妥協点をお互いに模索して、それが崩壊しない程度の枠内で議論をするのは当然です。それは、一歩一歩、相手の立場を踏まえながら自説の説得力を高め、少しでも双方にとってベターな結論を探すほかにはない。いきなり問題が解決するなら、人間は自由権ひとつ獲得するのに、何百年も戦ったりしませんでした。チンピラの喧嘩じゃないんですから。
結局、戦前のファシズムが戦争という最悪の方向へ流れたのは、財閥や各国の利権の問題を抜きにすれば、政治レベルの問題とイデオロギーの主張の次元を、知識人が取り違えたからです。
自説の主張並びにそれに関する学習ばかりに労力を費やして、肝心の議論の方法が稚拙なのは見ていて痛々しいです。
相手の矛盾を突くと言う論法はソフィストがもっとも得意にしたものですが、彼らは当時のアテネが置かれていた状況を乗り越えるための政策なんて、何ひとつ提示できませんでした。
訴訟においても、反証をあげることで相手の主張を潰すことはできますが、それは前提として証明責任が公平に分担されているからです。証明によって自己の権利を裏付けようとするからこそ、証明責任を負います。責任を追わされるのは、それによって自己に有利な判決をもらえるという利益があるからです。自説を説得しようとする以上は、それ相応の負担を負うのは当然です。
しかし、それに対して反証を挙げ、その主張を妨げる一方当事者も、逆に自分に有利な判断を貰うために別の主張をする場面では証明責任を負います。ケースバイケースですが、単に相手の主張を潰すだけではダメなのが普通です。
でも、これって考えてみれば、当たり前のことですよ。相手の議論が矛盾しているからといって、自己の主張が正しいという根拠にならないのは当然ですから。
私がネットの議論なんかを読んでいて不快になるのは、その辺りを明確にしているものが圧倒的に少ないからです。大学にしても、いったい何を教えてるんでしょうか。単に自己の意見を主張することが大事なんではなく、いかにそれを説得力を持たせるかが肝心であって、それには最低限の議論のルールくらいは知っとくべきなんではないでしょうかねえ。