お花見

昨日は哲学系の先生や友達と、新井薬師にある哲学堂で花見。
風に舞い落ちる桜も美しく、自然と落ちる花びらを浮かせて飲むお酒も美味しい。
ただ、そんな気分に水を差すような花粉に嫌気が差す瞬間も多々御座いました。


3次会は駅近くの飲み屋でしたが、先生がロリータ絡みの芸術性についてお話されていて、私もいくつか意見を述べました。専門からか私の意見はどうしても法規制によるものになってしまうのですが、それでも先生が藝術にしろ哲学にしろ、そこに悲しみがなければ存在しえないと仰られていたことが印象的でした。
そこで私とドクターのある方とささいなことで論争になったのですが、その方は分析哲学が専門の人でして、要はウィトゲンシュタイン専門。
個人的に意味不明なのは、ウィトゲンシュタインが言うように、結局、哲学が生活へと戻っていくというのなら、なぜそれを語る人々には現実感覚が欠如してるんだろうかという点に尽きます。「もう、それ以上は言葉では語れない」のならば、なぜ彼らは、ウィトゲンシュタインが辿りついた場所で哲学を続けようとするのだろうか。不思議なのは、ウィトゲンシュタインを研究するというのならばともかく、なぜ彼を批判せずに、その方法を用いて語れないものを語ろうとするのか、完全に意味不明です。要は、自分のしていること、しようと思うことを、本当にウィトゲンシュタインの前提に立って考えてるのかな、と。ウィトゲンシュタインを駆り立てた衝動の100分の1でも、この人にはあるんだろうか、と。言語ゲームとか、なぜウィトゲンシュタインが、あえてその言葉を使って研究したのかとか、そういう点に関しては無関心なんだね。
まあ、そういう多少は専門的になってしまう話はともかく、私としてありえないと思ったのは、「Aしたいんだけど、どうも、それをやると問題が起きる。どうやればうまくやれるかなぁ」という話において(普通の会話のイメージでいいです)、「まず前提として、Aすることの可否を考えるべきだ」と言い出し、さらに「要は、問題あるんだからAしなきゃいいんです」と。呆れはてて阿呆かと思いましたね。
なぜって、これを話す人にとって、Aしようと思うことは望みなのです。当然、それをすることによって得られるメリットは考えてある。にもかかわらず、この前提を考え直すとか、やらなきゃいいんじゃないの、とか、こいつバカじゃないのか、と。そりゃ、お前がAやりたくないからだろ、と。人間は、何かをやりたい、って強く思い望むから、真剣に考えたり議論するんだ。でも、彼のような方法で物事を考えると、こういう妙な話になるんですよ。


いやねえ、わざわざこんな風に複雑に考える必要もないですね、こんなことは。
「よし、お花見しよう。どこでやろうか」とみんなで話してたら、そこで「まず、花見をするかどうかから考えよう」とか誰かが言ってるのと変わらない。
誰もこんな風にめんどくさく考えませんよ。考える必要性がない。
なぜなら、現実ならば「Aする」ということを決めるのは、前の段階だからです。そこで議論すればよろしい。うーん、こんなこと書くのもバカみたいですね。
複雑に分析化しなくてもいいような場面で、つまらん方法論を持ち込むから、こういうバカみたいな状況が起きる。
いちいち「よし前提としては、そうだとして、次が方法論だな」とか、うるさいよ、お前。人が喋ってる時に意味不明な仕切りを付けるな、と。でも、いちばん恐いのはそういう風に語っていくと何かが分かった気になるとこですね。んわけない。それこそ言語ゲームじゃん。最後には現実的沈黙が待ってるだけよ。
そもそも、なんでこんな当たり前の話をここまで長く書かなきゃいけないのかも、彼らの罠に俺がはまってるからでして。


哲学のやることは、当たり前に見えるけどちっとも当たり前じゃないことや、考えてもメリットがないと思われてる大事なことを、あえて語ることじゃないのか。キルケゴールは正面から信仰と存在を問題にしたし、ニーチェ古代ギリシア哲学からあれだけ多くのことを承継して叫んだ。ハイデガーアリストテレス存在論を、時代を超えてテーマにした。
だからって、一般の感覚で明らかに意味ないことをやることじゃない。簡単に言えることや、そう言うべきことを、あえて難しく考えたり言ったりしてて阿呆かと思う。だから、哲学が落ち目になる。宗教学だとか、社会学とかに哲学が担った部分を盗用される。完全にこういう人たちのせいです。