猛省を促す

おそらく世界の姿は‐たとえそれがどれだけ表層的に様相を違えていたとしても‐それほど古代とは異なっていないだろうと思う。
要するに、人が肌を通して世界と触れることは変わらないし、吸い込む空気に含まれる異物が少なからず増えているとしても、呼吸をすることなしに生きていられないことに変わりはしない。また、石器で殴りあうことはしないが、機銃で撃たれたところで死ぬことには変わりない。何より、そうした行動の動機や、客観的な評価は少しも変わらない。要するに、大して進歩していないということだろう。
だが、それは技術や理論の進歩を否定したいがためにそう言うのではなく、むしろ、それらの基本的な形式が相も変わらずに同じであり、有効であることを言いたいのだ。


人が動物と最も異なるのは、言語や道具を持ったというような客観的なものよりは、そうしたものを現実に生み出したり、また使うための基礎となるような、抽象的な思考にあることは間違いない。
人は、抽象的に、物事を現実とは別の場所で考えることが可能である。
古代人が直面したように、古代の世界もそれなりの複雑さを持っていた。そうした多様な物事を理解するには(また未来を予測するには)、それらを秩序だてる理論が必要となる。
何が物事を構成しているのか、あるいは、何が世界を生みだしたのか。
それらは現実の問題でもあった。人々がより高い価値を求め、死を恐れることは、我々となんら変わることのないものであったから。
そうした理論は、さらに現実を否定することさえ容易に実行させる。


しかし、70年代ごろを基点として、こうした方向は大きく転換したようだ。要は、現実を肯定することに終始するようになった。
より基本的なことを言えば、抽象的な思考は知識人の専売であった。しかし、高学歴の一般化は、彼らの特権を奪うことに貢献したし、それと付随して起きた現実を肯定する波は、彼らの特殊性を反動的に強める方向へと働かせたわけだ。
だから、70年代以降の日本の学術(特に文系)は、一般の視点からはゴミ同然である。

その理由としては、まず理論の武器としての側面に対する需要がないことが挙げられる。現実を肯定するのに武器は不要である。理論の強さは、既成社会の問題点を突き、新しいヴィジョンを提示することにあるが、肯定するのに、これらは邪魔なものでしかない。
現実が常に人々に新たな価値を提示し続ける以上は、それを否定するものは不要とされる。


市場システムは、多少の問題点をはらんではいたが、人々が革命を熱望するほどに欠点があるわけではなかった。要するに、充分に満足うる環境を提示する。
どれだけ環境問題や飢餓、戦火やテロに対する恐怖が叫ばれようが、世界の半分、経済的な意味での世界のほぼ全ては、充分に満たされている。
そういう幸せな人々が知識人に求めるものは、束の間の知的関心が満たされることであろうし、それ自体なんら非難されるようなものではない。
企業の合併合戦に関する初歩的な法律知識で充分なのである。
こういう状況で、以前と同様の学術に何が求められるか、これに対する答えは簡単であろう。



こう長々と書いたところで、私は何かを非難したいわけではない。
彼らに対する評価(というよりも、大半の人が存在さえ知らないという意味では無存在同様だが)は低いものでもけしてないし、研究としてのレベルの高さに異論もない。
ただ、本来の思考とは、問題意識の共有からしか始まりようがないものであるのだから(興味のないものにコメントされても脳には何も残らない)、そうした視点の提供が欠けているのは、なんとも悲しいものだと思う。
単なる知識の集積が学術の主流になってしまっていて、テクストを読解する際にも、その著者が前提とした問題意識すら踏まえていないようなものが多すぎるように思う。


抽象的な思考の素晴らしいことは、何より現実には全く異質な環境に存在するものが、思考のレベルで何かを共有しうることにあると思う。
そういう意味で、全くの同一化はありえない。
ただ、本当に持つべき問題は、そうした環境の変化に関わらず、共有しうるものであろうし、そのことは、未だに数千年前の哲学者や宗教家が飽きずに読まれ続けるその事実にこそ表れているのではないだろうか。


私が感じたいものは、そういうものであって、だからこそ、数百年も昔の絵画を見ても、音楽を聴いても、そこに感じるものがあること自体が驚愕なのである。
これは教養主義とは無論、別のものである。
歴史などと大層なことを書くつもりもないが、人々が生き、そして死に、受け継いでいかねばならないものはやはりあると思う。
素晴らしい社会システムは有用だが、そうした主体性が無くなったら、生きているのか、それとも生かされているのか、そんなことで悩まねばならなくなる。これは、ただ単に極めて退屈なことであろう。その答えを見つけたところで、現実は変わりようもないからである。


どれだけ世界が平坦に見えても、私が、相も変わらずに続く歴史のなかにいることだけは、やはり紛れも無い事実なのであろうから。


学術を、古代から近代まで知識人が独占していたのは、その思考の難解さや抽象さのせいではない。単に、文字が独占されていたからである。だから、活版印刷技術の発明以後(さらに教育水準の高度化以降)は、多くの古典的著作が軒並みベストセラーとなったのである。
つまり、『バカの壁』のように、ルソーやアダム・スミスが読まれていたのである。
学術書が売れないことを、一般の知的水準や関心のせいにする研究者は、事実を転倒させているだけである。「猛省を促す」とはこういう場面で使うべき言葉だろう。