無題

よくテレビで法律が問題になったりすると専門家が出てきて喋ったりしてますが、あんなの私程度でも知ってるようなことばかりで、あれでいくら貰ってるんだろう、なんて思ってしまいます。というか、商法見りゃ書いてあるじゃん、みたいな。
まあ、ホリエモン絡みの件でしたが。


ところで最近の私は、生涯教育に関心があったりします。
とはいえ、社会教育あたりで真剣に討論されてることは外部者の私の預かり知らぬものなので、もっと基本的な疑問から。
要は、人間って22歳で学業的なものから切り離されて、まるでもう勉強なんかしないものであるかのような認識が、さも一般的であるように思えるからでして。
え、そうか、と思う。
22でどれだけのことが学べるというのだろうと思う。人間は一生、いろんなものを学んでいくわけで、もちろん、環境のなかで色々学ぶのは自然なことですが、そういう場所適応型の学習ではなくて、もっと理論的なものや知っていれば応用の効くような知識=情報って、いくらでもあると思うのです。

これとは少し別の問題にはなりますが、私は大学狂育にもかなり疑問がありまして、大学が研究機関であることは事実ながら、たとえば明治になって公教育が制度化されていく背景には、「国家」のために有用な「人材」を育成することの必要性が叫ばれたわけですよ。つまり、当時は研究対象となる技術の開発よりは、「人材」の育成に主点が置かれていたわけです。

それが今ではどうか。

国は、人材育成になんて関心ないですね。ほっといても官僚になりたい人間はわんさかいますから。それに、国家資格として難解な試験を課す以上、一定レベルの水準は確保できます。
さらに言えば、国が大学に求めるのは、人材ではなく、技術です。中村教授が、大人気ないとか、一般常識あるのかとかそんなことはどうでもよくて、外国と競争できるだけの技術が欲しいわけです。文系社会とかいいながら、文系なんて研究的には国にとってどうでもいいわけです。

なお、私は国家主義者でも中央集権主義者でもないので、こんなのをそのまま復活させろなんざ思ってもいませんけれど、たとえば、ここでの「国家」を「社会」とか「環境」に置き換えりゃ、そういう人材は絶対に必要だろうと感じてもおかしくないと思う。意識教育とか言い出すと一気に危険になるので言いませんが、個人で好き勝手にやる人間ばかりよりは、環境を含めた全体の視野は持ってるべきではないでしょうか。
吉田松陰は相当に過激な人でしたが、彼の教育から、高杉晋作木戸孝允といった総合的な視野やハートを持った人間が生まれたことを考えれば、社会性なんかを教えてもそれほど思想教育にはならんと思うのです。
自由は、無秩序とは全然違います。


とりあえず、今よりももっと悲しむような人がいないような世界ってやつをどうすれば実現できるか、溢れるほどの数多い情報を組み合わせ、応用して考えだすような能力ってものは、学ぶことを抜きにしては得られないように考えますよ、私は。そんな能力を22で身に付けられるわきゃないよね。

なんだかんだいっても、社会を動かすのは人間であって、理論でも技術でもないです。
研究者を育てることは絶対必要としても、大学に行く人間の大半は、研究者にはならないです。しかし、彼らの求めるものを提供はできているようには思えません。たとえば、一般常識を踏まえながら、論理的にものを考えることが出来る人がどれだけいるのだろうかと思う(私も人のことはぜんぜん言えませんが)。
ただ、とりあえず教育の視点を欠いた現状の大学って、それでいいのだろうかとはやはり思います。


で、生涯教育に視点が行くわけなのですが、私としては、将来的に学校を作りたいですね。人が持ってる潜在能力を、そのままにしておくのは、「社会経済的」にだって勿体ないはず。国としては、無口で大人しい人間がたくさんいるほうが好ましいのかもしれないけれど、私には関係のない話ですね。