いく、いかない

先日書いたことの続き。
ここ数日、表面的な明るさや変わりなさとは裏腹に、実際は物凄くブルー。
周囲・・大好きな友人たちは例外ですが・・に対するほとんど諦観というものが強すぎる。
これも、結局は理想、いや妄想と言ったって構わないんだろうけど、そういうものが現実によって潰されていくからなんでしょう、とか呟いても、それでも悲しくて悲しくて、諦めたくてもう楽になりたくて、それでも自分は、テレサ・テンのように時の流れに身を任せる気にはなれない。これが恋だったら、どれだけ自由になれるのかと思うけれど。
何よりも恐いのは、すべてを受け入れて、まるで罪人を許すキリストのようなハートにはとても足りない半端な、ただなんとなく、なんとなくただ、「あの瞬間」が永遠に続くような感覚でぼんやりと歩いていくこと。
私には「あの瞬間」の直後の、あの死の淵を覗き込んだような虚しさが恐い。それが突然襲ってくるような、永遠に続くようなまどろみも恐い。
終わるなら、何の前触れもなく、何の予感も抱かせずに、いきなり私を抱きとめてくれればいい。お前になら、私は私のすべてを捧げてあげる。どうせ、いつかは愛されるのならば、つまらない前戯は要らない。無駄は要らない。さあ、刺せ!ここが心臓だ!!いつだってお前のために鼓動が止むことはない!!


でも、そんなのは嘘。間違ってる。
無関心も嘘。いくらだって噛み付いてやるし、引っかいてやる。ちゃんと爪は短くきってあるから、どれだけ気持ちよくたって、傷なんかつけない。さあさ、いくならいけばいい。
でも、俺はいかないってだけ。
いく、いかない、じゃない。そんなのはいくないし、いくなくも、ぜんぜんいくない。お前のとこにいくのも、まだ早い。
でも、いくのは勝手。ならば、いかせて。どうか、お願い。
ほとんどコメディ。でも、案外必死だったりする。どうさ、相棒?


・・・・

答、というかヒント
リンク先で読んだ『オペラ座の怪人』の翻訳の問題が面白かった。元は戸田奈津子さんが呆れられて書いておられたものです。
あの映画では、passion-playを「情熱のプレイ」と訳してあったそうな。どういうプレイですか。笑ってしまいますね。パッションって情熱でもあるけれど、同じくらい同時に「受難」の意味だと気付いて欲しい。それにプレイって、お芝居のことでしょう。
でも、これは実はヒントでも答でもなかったりする。たまたまです。上に書いたことと、色んな意味で重なる部分がちょこっとあったので、ふとここにも書く気になったと。