昨日、神保町で羽仁五郎の『日本人民の歴史』(岩波新書)を100円で入手したので電車のなかで読んでますが、さすがは硬骨のマルキストといった内容で面白い。昭和25年刊なので旧字体ですがまったく問題ないです。啓蒙書として生まれた岩波新書、といった雰囲気濃厚なのがこれまた良いです。
読み終わっていないので詳しくは書きませんが、ヨーロッパと違って日本には民主的な思想の経験すらない、日本は古来から奴隷制社会であった、といったこと(教科書ではさりげなく書いてあるくせ、一切直接的には書かれていない)を資料を挙げながら述べています。
そういえば、最近、ギリシアの民主制を少し調べたのですが、高校生の頃のように、自分に批判する力のない時期に色々と勉強するのはダメだな、と思い知らされました。要するに、今は行間を読めるようになってるということですけど、これのどこが民主制なんだといった感じでして。民主制黄金期を生み出したペリクレスに至っては、かなり呆れました。
この時期に、ギリシアは行政のトップに至るまでくじ引きで決めるという、最強の直接民主制を実現したのですが、合理的なギリシア人らしく、軍事に関しては専門的な能力が必要だと判断して、直接民主制は採用してません。そのトップに君臨したのがペリクレスですから、民主制といったところで実権は彼が握っているわけでして、有名無実とはこのこと。ペルシア戦争後まもない、まだ戦時下から抜け出せないような時期ですから、軍事が最優先課題だったわけで、尚更です。ヨーロッパ人と一緒になって、ギリシア民主制を絶賛するのはバカバカしいということです。あ、それが奴隷制に支えられていた、なんてことは常識すぎるのであえて語りません。
ただ、羽仁五郎が言うように、そうした過去の経験、かつては存在した思想的記憶が、近代において有効に働いたのは事実でして、それを歴史的な記憶として持たない日本は、本質的な民主制をなかなか実現できないということには耳を傾けさせるものがあります。
まあ、他にも色々と面白いことに気付きました。
まず、ギリシア民主制の基盤になった共同体意識、これはギリシア神話などの宗教に支えられ、哲学からギリシア悲劇、建築、彫刻に至るまで、影響を及ぼしているものですが、この発生が軍事革命たるファランクス(歩兵を密集させて形成する陣形、部隊単位)の発明を起源としているわけで、一緒に戦ったから仲間だ、ということです。民主制には己が政治の一員たる自覚なくして成立しませんが、それが軍事を基盤にしてるんですね。
危機を意識しなければ、人は連結できないってことですか。あと非常時に人を連結させ、それを機能させるためには強力な指導力が必要になるわけで、これが、アテネの民主性が破綻した後に、ヘレニズム、ローマ期に、オリエント的な専制君主制が主流になり、近代まで民主共和制が復活できないことの契機になるわけです。まあ、プラトンは共同体は5000人くらいがちょうどよい、とかどっか(確か『国家』)で述べていた気がしますが、現代で共同体だとか、公共性とかを機能させるのは至難の業でしょう。国家が(間接的に)やるもんじゃないとも思いますし。以前に教育について述べたことと同じ結論ですね。

いや、だから、どうだというわけではないのですが、反ブッシュ親ブッシュはともかく、民主批判も擁護も、その実質を考えることなしにはできないと思うのですが、世間ではそうではないのだな、と。
とりあえず、過去に今よりも素晴らしい時期なんてないですよ。今が素晴らしいわけでもないとしても、その失敗は繰り返してはならないと思いますね。
そもそもルネサンス期に、人文主義だとか言って過去の記憶を引っ張り出してきたのは、中世の抑圧があまりに酷かったことへの反動ですし、時代に合わせた記憶・情報の再編成です。ロックで言えば、パンク〜ニュー・ウェイヴみたいなものです。
そのためにも、学ばなければならないことはたくさんあると思うのですが、どうも実務というか専門に偏っているし、体系的かつ個別的に情報なり知識を活用することを訓練する場も、それらの情報を学ぶ場も失われている気はします。
子供たちに教えてて思うことは、与えられた問題を解く力はあっても、そもそも解くべき問題を自分から見つける力は弱いように感じます。
しかし、誰かに言われなくても、自分から問題点を見つけだす力がなければ、ただ与えられたことだけをこなすイエスマンばかりになってしまうように感じますが。