砂漠、砂浜、海岸

julien2005-01-20

昨日NWSで勉強した後に、Nノと和光前で3時半に待ち合わせ。一緒におばさま方でゴッタ返しの椿屋に行った。美しい名前、歴史を持ちながら移転をして、結果的に雰囲気だけになった喫茶店についてはまた今度書くとしても、その後池袋へ帰り、時間潰しにコーヒーを飲んでいたら急に色々なことが恐くなって結局本当に講義に出れなくなった。
考える必要もないのに欲しいものがなんだか分からなくなって、そうだ、今目の前に置いてあることをやるだけだ、ただ歩き出すだけだ、などと言い聞かせても全てがうすっぺらに見えてきた。
いじわるになって、Nノに「何が夢なの?」とかしつこく聞いたりしたけど、それは全部自分に聞くのが恐くなったからだろう。
Nノは、色々あるけど、でもはっきりとは言えない、と当たり前のように言って、まったくその通りだろうなと思い、聞いた自分がバカに見えた。
大体、私はいつも答えがすぐに欲しくて、これはほとんど中毒なんだろうなと思う。
一を聞いて十を知るのは無理でも、私は五くらいは欲しくてたまらなくなる。こういうことだろう、と考えて、それなりに経験や知識や情報を元にして結論を出してるんだから、それなりに当たる。空模様を見て、今日の天気を考えるようなものかもしれない。あ、今日は傘が必要だな、とか考えて、準備するのである。


足りないものがなんなんだろうかと思う。なんでもあるなぁ、とも思う。別に恵まれているからではなくて、自然に自分が満たされるシステムに身体がなっちまってるって感じる。
大体、高校生まで、強烈な飢えを感じたことはほとんどなかった。工場のような学校に行く気がなくなって、好き放題やってた頃も、とにかく理由を探した。飢えを作りたがった。自分は醜くて、人前なんか出れた顔じゃないとか本当に信じていた。高校の先生も、少し通っていた精神科の先生も、彼が学校に行かない理由が分からないと親にこぼしてたらしい。とにかく、誰かと喧嘩するために自分を正当化したかった。
嫌だったことは一つあって、このまま階段を昇ってエリートになって、飢えがないことに慣れたり、配給されるようなもので満たされることは恐かった。
そう考えると、私が色々やってることは、いつも飢えを探していることのように思えてくる。
恋も飢え探しでやったりして、いまだにバカにしか思えない過去の自分がいる。
「あなたは自分のなかで回っているだけだわ」
胸を万年筆で刺されたよう。言葉がインクの染みのように拡がった。今でも消えない。滲んでしまって、もうなんて書いてあるのか分からないけれど。
それなのに、今だって「あの子いいね。好きになりたいな」とか思いながら、同時に何も求めてない。キスしたいとか思わない、手を繋ぎたいとか思わない。一緒にいる瞬間を想像しても、なんだかテレビで見る映像みたい。でも、私は俳優じゃないし、彼女の名前もキャスティングに見当たらない。
「本当に好きになってないんだ」ってあいつに言われそうだ。チクチクと痛むのは、これじゃない。
でも、見上げれば、あそこに星は見えるよ。昼間の明るさで見えないなんてことはない。昔どこかで聞いたように「見えなくたってあるんだよ」。
海岸を歩く、歩く。そうだ、歩け。忘れてるだけだ、思い込みが激しいだけだよ。



私が歴史を好きなのは、そこには人々の強烈な飢えが溢れていて、あらゆる感情や知恵や、血や涙や喜びがあるから。
詩が好きなのは、何かが求めているものと重なるから。
音楽が好きなのは、何もかも忘れるから。そして、終わりと同時に何もかもを思い出して、そこに何かを付け加えてくれるから。


私にもヴェルレーヌがいるなら、今は彼の手で撃たれたい。そして、私は死なずに、砂漠を放浪するのだ。風が、景色を絶えず変えて、どこかから音楽を運んでくれる。砂漠は砂浜へと繋がって、そこでは足跡もすぐに波が消してくれる。そして、海岸線をずっと北へ、北へと歩く。
「思い出した?」
「うん、大事なものは全部あったよ。ちゃんと知ってた。それを忘れてたみたい。ありがとう。さよなら、また明日!」
街並みは流れ、するりと抜け出した私は、なんだ、いつもの場所。いつもみたいに笑ってみよう。
ぎこちなくたっていいさ。そう、また明日。手を振って、グッバイ!ちゃんと、聞こえるじゃん。