飢えと思索

おそらく私の思考が幼稚だからなのでしょうが、哲学や思想に恒常的に触れている人にはどうしても距離を感じるんですね。
まず書いてあることがほとんど意味不明。ただし、それは意味的な問題ではありません。読んでいても何も感じないってことです。そういう意味じゃ、「書いてあること」というより「書いている人」が意味不明なのでしょう(私には)。感覚的な表現をすれば、脳のなかに沁みこんだ後に、それが身体のどこにも伝わっていかないってことです。結局、思索というブロックを使って脳内積み木遊びしてるだけなのかなぁ、と(ちょっと言い過ぎかも)。


だけど、意味的な問題なら、それは専門化すればするほど必然的にワードが多種多様にわーっと溢れだすのだから当然のことであって、私が専門とは別に学習している法律だってそれは変わりません。例えば刑法の超基本なんですが「反対動機の形成の機会も与えられていないのに責任非難をなすことはできない」とか意味分かりますか?*1知っていれば、ジョークにも使えるくらい簡単なものなのです。
とにかく、世間一般的に難解だとされる学問には、これはつきまとうものだから仕方がないのですね。
例えば数学や物理学などはその最たる例でして、これなど門外漢には分からないのが当然といった趣さえあります。


それでもですよ、哲学や思想は、社会や言語といった一般人にも非常に馴染みのある事象を対象にしているのだから、少し酷すぎる気はするんですよね。
たいてい難解なワードによって語られている理由は、①普通の用語にすると生じてしまう誤差を避けるため ②長い説明の手間を省くこと、そして③難解な言語を使いたがる悪癖が入り混じっている、というのが現状だと思うのですね。


だが、それくらいなら問題はないのです。「言論が全ての人に対して開かれている必要は無い」と言われれば、ああ、そうでしたね、無知でごめんなさいね、って言って、そんな人とはさよならすればいいのですから。
そんなことよりも私がいちばん疑問に感じるのは、そういう人たちは何か飢えがある?って、もうその点にあるんですから。
それがあるのかないのか全然伝わらないから、もう何も感じないんです。そんなの気持ち良くないのですよ。

なぜなら偉大な業績を残した人って、それが政治であろうと文学であろうと音楽であろうと哲学であろうと、共通して、何か大きな飢えを抱えているとしか思えないのですから。そういう部分に惹かれることって大きいのです。作品と同じように、時にはそれ以上に愛される人物って誰でも知っていますよね。それはみんながその人に関心があるからです。どうしても惹かれてしまう、んです。


そういうのは、けっして単なる知識欲なんかじゃなくて、もっと大きな感覚的な何かに根ざす飢えであり欲求です。
苦しかったり、嬉しかったり、悲しかったりする、そういうことが作品から伝わってくるのです。思索だって同じですよ。
ソクラテスに始まって、先日亡くなったデリダまで、彼らの知を愛する人は、そこから彼らの色々なものを感じているのです。

彼らは、難解で深遠な世界を「自分のもの」として吸収して、それを独自な世界として抽出します。だから、そこには単なる解説や解釈を超えたものが生まれてきます。自分のもの、なのだから当然なのです。


私はトランスレイションの問題を無視する気はさらさら無いのですけど、それでも、日本に海外からも注目されるような独自の思索って存在するんでしょうか?
個別の研究に関しては高く評価される以上、国境や言語の壁のせいには出来ません。イチローや松井、小澤征爾でも誰でもいいんですが、そういう状況を知っている以上、下手な言い訳は聞きたくないですよ。
私は、そういう飢えを感じるような研究を知りたいんです。日本人に知能的な問題があるわけじゃないでしょうにね。
浅田彰東浩紀、誰でもいいんですが、とにかく彼らが期待されてるとは思えないけれど、それでも彼らは皆あまりにクールでかつ満ち足りていて、激しい飢えを感じません。そういえば、みんな色気も無いよね。これって、想像力の欠如や感性の問題なのかな。やっぱり日本って孤立してるのかもね。

*1:Aさんは「これって悪いことだよね?」って思うこともできなかったのに、Aさんに「お前は分かってて悪いことをやっただろ」って言っちゃうのは可哀想だから止めようよ、って意味