2年後

julien2004-09-17

塩野さんの『ローマ人の物語』。一昨年に文庫で読み始めたので、次の刊行が2年後とか長いよ、って思ってたらもう2年経ったんですね。
それにしてもあの文字の大きさで一冊200p。毎度のことながら3分冊にする意味あるの?ってさ。新潮さん、商売しすぎですよ。


・・・・

2年前と言えば、もう世界は変わってしまっていたが、実は何も変わっていなかったようにも思える。ストロークス登場以降のこの3年間はやっぱり暗いニュースが占めていた。ロックンロールにとっては幸福な歳月は、やはりそれにふさわしく混沌とともに踊っていた。ロックに「ロ−ル」が戻ってきたことの意味は、スタジオでマジックが起きたからではない。
毎日耳にするニュースもたいして変わっていない。その度に、私は慣れていく。荒廃に慣れるのではなく、荒廃のイメージに慣れていく。私は身の回りを見渡すが、そのどこにも荒廃は見当たらない。
爆撃で廃墟になった街、宙吊りにされた遺体、泣き叫ぶ人々、怒り狂う人々。しかし、それは古い映画の記憶のようだった。


戦時下という言葉の恐ろしいところは、少なくとも私が暮らす世界においては何ひとつリアリティを伴わないことだ。
「今は恐るべき状況にある」という認識は、どこか古いイメージを引きずったまま流通する。
そして、私に至っては、何が恐ろしいのか、何が新しい恐怖なのかが全然分かっていない。
結局、世界に拡散するのは恐怖ではなく、悲しみであり、怒りだった。
知性はあまりに希望を求めすぎる。イデオロギーの死が宣言された後に、私たちはイメージに退避しているようにも思える。
恐怖のイメージを共有する。しかし、視覚は逆にそれを楽しんでるよ。
ホラー映画が、心理的恐怖から映像のそれに移行したように、イメージはひたすら不可視なものから不過視へと移る。
知性の主体は、想像から視覚へと移るのだね。

・・・・

誰も自由など信じない。誰も平和など信じていない。
しかし、それは絶対的に正しい。なぜなら、それらは信仰の対象などではないからだ。それらは、ある現実にあてはめられた額縁に過ぎない。
その額縁がはまっていた頃は、その風景も少しは見れたものになったということに過ぎない。


私は、祈る暇があったら手を動かせ、といった物言いは好きじゃない。
しかし、祈りの対象を間違えているのなら、やはりそれは無意味だと言うだろう。
自己を客観視し、透徹した精神が生み出す祈りを歴史の中で数多く見出す。それが、私にそう思わせる。

信じることは、認識とは無関係だ。だが、それは怠惰でも逃避でもない。五感は磨ぎ澄まされ、神経は高ぶる。
知性の最大の誤りは、理性の専制にこそある。


しかし、俺の感覚はいまどうだ?
感情は泣いてばかりいるのか?それとも、怒りで我を忘れているか?

何もかもイカサマだ。しかし、俺は選択を辞めたりはしない。俺はいつも徹底的に選んでやる。
選択肢をいくらでも産み出してやる。
知性、お前は何も決めなくていい。お前は、ただ道を作ればいい。大丈夫だ、すぐに脇道に逸れてやる。それが俺のする選択だ。
お前を喜ばせる方法はいくらでもあるんだ。だが、俺はお前を混沌とさせてやる。
お前には友達がいる。それを思い出させるためになら、俺は平気でお前を裏切るさ。

・・・・

俺は人が死ぬことについては何も知らない。しかし、無性に嫌な気持ちになる。
俺は焼け付くような苦しみの中で家族を失った人の悲しみを共有することさえできない。
俺はどこかで笑える瞬間を持てるから。
けれど、俺は混沌とする。泣いたり怒ったりする。そして、脇道に逸れる。いつも何かを選んでいる。政治家を選んだりもする。

しかし、俺には、自分だけのものじゃない何かを選ぶことができるのか?
俺は何かをいつも思う。想うことの終わりを捜したりもする。
しかし、世界を選ぶのを無意味とだけは思いたくない。