絶対的なもの

世間的に見ても私には信仰心なんてもんは無いってことになるだろう。そういう発言は一切しないし。でも、実は得度を受けてたりするから、仏教徒ってことになるんだろうけど、西方浄土を信じてるかって言えば、答えはノーだ。正直に言えば、信じるってことがなんなのか分からない。
世界の絶対的な根拠を真剣に求めた人たちがいる。彼らにとっては、信仰こそがその証だし、レゾンデートルでもあった。それを「光」って比喩で表現したのは、物凄く興味深い。つまり、なかったら闇ってことだ。そう、彼らにとっての原始的世界は闇だった。そこに光が生まれることで、彼らは認識の手がかりを得る。
生まれたばかりの赤ん坊は、あちこちを触りたがるもんだよね。そういう感じかもしれない。
で、今の私たちはどうなのかって考える。
光はもうすでにあった。そんなことには疑問を抱かない。世界がどうなってるのかなんて、知りすぎてるのかもしれないし、世界の果てに理想郷がなくても困らないと思っている。死んでしまった先のことに、不安をおぼえたりもしない。
これって、不幸なことなんだろうか。私は全然、そうは思えない。少なくともそう感じない。信仰がなくても、問題ないって考えてしまう。というより、信仰心ってものを持つのが、とても恐いことのように思うんだ。違和感を覚えてしまう自分が確かにいる。

でも、ある友人、彼はクリスチャンなんだけど、彼と哲学の話をしていた時に、彼に「それって相対主義だよね」って言われた。現代思想をやってれば、絶対なんてものはない、って自然に思ってしまう。「絶対」はダメで、「相対」こそが常識化している。でも、彼にとっては闇が絶対だという。アインシュタインハイゼンベルクを引用して闇の思想を考えると言っていた。彼は滅茶苦茶な生活をしているけど、「絶対」というものが彼の世界にはあった。

確かに、社会を考えれば相対主義は、とてつもなく「正しく」て、問題も無い。そこには論争がないから、世界はありのままに存在し、色眼鏡無しにありのままに眺めることができる。でも、そこでは個人の感情や、考えの相違が、ただそのままに並存する。それが政治的にもそうなれば問題はないのかもしれないけど、実際は力が支配する世界だ。結局は、相対主義という名の下に、強者の支配しか続かない。論争はないけれど、戦争はなくならない。

絶対とか、そういうものに対する信仰とかを考えていると、よく分からなくなってくる。実感を得られないからこそ、頭で考えても答えは見つからない。

失われたものの穴埋めをするために、私たちは余計にたくさんのものを抱えてしまったのかもしれない。
信仰を持てば楽になれるのは分かるんだ。新興宗教にはまる人の多さがそれを証明してる。苦労するために信心を持つ人なんて、現在じゃあまり見かけない。
でも、無理なんだよね。そういう感覚がもう無いんだ。その代わり、多くのものを持つことで穴埋めしようとしてる。たくさんの知識が、その劣等感を和らげるように機能しているんだろう。