書いてて思うこと


私は色々と過去の音楽(ロック中心、ですが・・・)を掘ってるんですけど、聞いてて感じることは、現代ものよりも自由に聞けるように思えるのです。それが私の主観に過ぎないことは分かっていても(だからこそ、当時の状況やら客観的に聞ける部分‐例えば、どんな音なのか等‐はちゃんと踏まえておこうかなと思ってますが)、ある方が言ってくれたのですが、古典は「今となってはディティールは誰も知らない」から、慣習に囚われることなく、自由に想像力の翼を拡げることができるように思えるのです。
「印象批評に過ぎない」と言われてしまえばそれまでですけど、自分の主観=印象を抜きにして批評なんて成立するのか?という思いはあります。前にも書いたけど、感情を抜きにして思考なんて出来るのかとは真剣に考えています。書くこと、そうやって絶えずエクリチュールは生まれ続けているけれど、某所のように匿名(名無し)で書くことだけでは、発言に対する責任感は生まれないと思います。
「私はこう感じる、こう思うんだ」って主張することが、なぜ悪いのか?絶対的な客観性なんてあるわけがないとしても、ウィトゲンシュタインのように沈黙する、っていうのはおかしいです。発言とは主体が責任を追うことであるのなら、客観性などを求めて責任回避するよりも、その責任を引き受ければ、それでいいと思う。冷静に社会を見れば、どこもかしこも自己主張ばかりでしょう。なぜ批評に関してだけ、そんなことが言われるのか分かりません。発言する、そしてその発言の責任を引き受ける。コミュニケーションとは、そういうものじゃないのかしら。発言に責任が付いてくれば、適当なことは言えないし、どうすれば相手に伝えられるかを考えざるをえなくなる。けして無秩序になることはないのです。
とりあえず、某所のように無責任な言説が跋扈するのは、あの場所に限ってほしいのです。匿名の空間自体を否定する気はまったくないですが、それを勘違いした人が最近は多すぎます。




マニアックにならないようには意識しています。自分の耳を中心にしながらも、ある程度は世間で認められているようなものを載せるようにしています。
音楽好きな人には当たり前のことでも、そういう狭い場所だけでしか通じないようなジャーゴンを使うのも嫌だし、私は自分が好きな音が、どこかの誰かにとっても綺麗なものであったら、とか思うだけなので。そのためには、自分がどれくらいその音が好きなのかを書くほうがいいと思うし、自分自身、そういう気持ちが伝わる文章を通じて色々な音楽を聴いてきたから、余計に強く感じるんです。