昨日の続き。

表現するっていうのは、自分を削りながらするものだ、っていう感じがずっとどこかにあった。黴が生えたような古臭いものっていうのは分かってるんですけど。
フローベールが「芸術品を完成させるのは高山を登るようなもの」と言っていたのを思い出し、プルーストのコルク張りの部屋の静寂、筆を折るランボーや、ポロックが薬漬けになりながらキャンバスの上を歩き回る姿を想像する。美への信仰者のごとく、殉教することも辞さないような強い信念に眩暈すら覚える。
そして、椹木野衣の『シミュレーショニズム』を読んだ後の新鮮さと違和感。これからの表現は新たなものを生み出すことではなく、既存のものを編集することだということ。うーん。

編集と表現。
その二つが並列的に語られるものじゃないことは分かる。表現に編集は欠かせないものだし、あらゆる表現は編集であると言う松岡正剛のような人もいる。
でも、なんだろう。それって、そんなに簡単なことなのかな。
素材は無数にあるという。現代アートでは、素材を選ぶことも重要な要素だ。キャンバスと絵の具、または大理石と彫刻刀、それだけじゃ表現するのが無理?なようになってる。
でも、何を素材とするのか、その辺りで私たちはそんなに自由になってるのどうか、時々分からなくなる。
徹底して自由な感性っていうのは、かなりの孤独な精神状況を必要とするのではないんだろうか。フローベールが言うように「孤独に泣きながら」するようなものではないのだろうか。
やっぱり私は自由って言葉が分からない。それは、物凄く悲しい言葉なのかもしれない。
私には絵筆じゃなくてペンしかないけれど、勿論、ペンは剣よりも強いなんて、福沢諭吉みたいに爽快にはったりをかます気もないけど、麻薬と変わらない何かに執り付かれているんじゃないのかな。