徒然なるまま

julien2004-01-25

結局、クラブは回避。夕方に別の友達からメールがあって、fra-foaのライブで下北にいるとか。まったく知らなかった。なんか、新曲を歌った割には、今後の活動を言わないし、解散する雰囲気を感じさせるはっきりしないものだったようですが。ライブのタイトルが「ケリ」だし。「イレル」ならいいけど「ツケル」だったら困る。


その頃、自分はナンシーをちょこっと読んでました。まだ10p(苦笑)

人間たちの共同体であるべきものとしてあらかじめ想定された共同体は、それ自体が、人間たちの共同体としてそれ自体の本質を総体的に実現する、あるいは実現するはずだということをあらかじめ想定している。そして、そこで言われるそれ自体の本質とは、人間の本質を成就することなのである。そうなると、経済的絆、技術的営為、そして政治的融合(組織体のなかでの、あるいはひとりの長のもとにおける)が、必然的にそれら自体によってこの本質を体現するというよりむしろ呈示し、露呈し、現実化していくのである。それはわれわれが「全体主義」と呼んでいるものだが、たぶんそれは「内在主義」と呼ばれるほうがいいだろう。
無為の共同体

ナンシーはこのように分析し、この内在主義は、現在の民主主義的諸政体や法的枠取りを取り囲んでいるといいます。

要するに、人間や個人という概念が、関係を持たない絶-対者として想定されているため、経済社会や技術や政治的なまとまりは、「人間」という本質を体現するんじゃなくて、逆に、それらこそが「人間」を主体としてつくりだしているのだ、ってことです。
まあ簡単に言えば、人間は関係性を失って、ただの操り人形になってるってことです。
共同体論も、公共性も、人間や個人といった概念をかなり曖昧なままにして使ってますからね。ナンシーはまずこれらの概念を厳密に分析したうえで、共同体論を転回しようとしているわけです。


とりあえず、私がナンシーをちゃんと読んでみようと思ったのは、マルクスに対する認識をしっかり持ってるからですね。
廣松渉が『いまこそマルクスを読み返す』を書いてからもう10年以上が経っていて、それから比べてもますますマルクスは過去の人に(大半の人のなかでは)なっていますけど、個人的にはその価値が失われたとはまったく思っていません。
批判するにしろ、肯定するにしろ、彼の思想をきちんと踏まえて考えることは、まともな思想家なら最低限しなければならないことですし、踏まえなくても思想は出来るなんて思ってる人は、それを証明してもらいたいもんです。
忘れられることと、ダメになるということは全然違います。
共同体っていう言い方が硬いのなら、理想的な世界といってもいいんですけど、そういった世界のあるべき姿を再発見しようとしていたのがマルクスだし、彼の思想だと私は思う。
レーニンスターリン毛沢東と、マルクスの間には、はっきりとしたラインが引かれているってことを、改めて確認したほうがいいと思うのです。マルクスに対してつまらない印象を持ってる人は、たいていそこさえ分かってない気がする。あとは、無関心かな。