マハトマ!

julien2004-01-18

金曜の講義は、南インド研究の権威である先生が定年でお辞めになるとのことで、その最後の講義でした。
最後なのにもかかわらず、当の先生が人身事故のために遅刻されてしまったため、ガンディーについて先生が放送大学で講義されたビデオを見ているように指示があり、しばらくはそれをボーっと見ていたわけです。
それまで、自分にとってガンディーというのはインド独立運動に深く関わった活動家または政治家といったイメージしかなかったのですが、見ている内に、なんかよく分からないモヤモヤしたものに包まれてしまって、一体この人は何がしたかったんだろう・・?って。
私たちは普段、何かをしようと思ったら、まず目的をはっきりさせてから、それを実現させるための手段なり方法を考えますよね。
しかし、ガンディーのやってることは、独立とは無関係なことだったり、非暴力運動のようにあまりに理想的であったりして、例えば、ネルーら独立会議派の人達が達成した独立の式典を盛大に行っている時も、イスラム教徒の人々が多い地方で、ヒンドゥー教徒との調停を図っていたというように、少なくとも政治家では全然ありませんでした。インドの独立を達成したかったわけじゃないの?って。

でも、まてよ、と思ったんです。私たちは彼のことを理想主義者だと思ってしまいますが、彼の場合、その目的があまりに高い場所にあるというだけで、実は、私たちのほうは、単にそれを目的にできなくなってるだけじゃないのか、目的に理想を持てなくなってしまっているだけじゃないのか、と。
例えば、宗教対立の件にしたって、私たちはそれが解決不可能なことを知ってしまっています。世界から暴力や戦争を無くすことの実現可能性も、まるで信じていません。
だから、それを目的から下げてしまって、とりあえずの妥協点を探ろうとしてしまう。言ってみれば、実現可能なレベルまで目的を下げるわけです。多分、政治家であれば、こっちのほうが正しいあり方で、理想主義は、余計に多くの悲劇を生んでしまうことだってありますから。
だから、今回のイラク戦争にしたって、フセインみたいな犯罪者を放置しておくことによって、毎年罪の無い多くの人が殺されている状況が続くのならば、戦争によって多少の犠牲者は出ても、将来的には人々が死ななくても済む社会になるだろう。だから、妥協ではあるが、正しい選択だろう、みたいに判断します。

でも、ガンディーにとって、これはありえない。どんなに目的のためにといったところで、人が死ぬことよりも最悪なことはないのだから。別の手段を探せ、と言うでしょう。いや、彼の場合に何より凄いことは、自分自らが実験体となって、それを行おうとする。
結局、彼は狂信的なヒンドゥー教徒によって殺されてしまったわけですが、私は、見てて涙が出そうになりましたね。
こういう人がかつていたってことが、私にとっては、どんなことよりも凄いことに思えてしょうがなかった。百万の味方を一気に得ることができたみたいに嬉しかったのです。

要するに、理想を持っててもいいんだ、ってこと。いつも、それが実現不可能だから、とか言ってそのレベルを下げてばかりだけど、星は手に届かない場所にあるから、綺麗なんだし、理想だって同じなんだよね、って。
現実が悲惨でロクでもないことを、私たちは「知ってる」けど、「信じる」必要はないんだよ、って。


いや、言ってることが甘っちょろいことは知ってるんです。でも、それをやるのは全然甘っちょろくない。ガンディーの生き方を見てれば分かります。ガンディーには、本当にいてくれてありがとうって言いたい。あなたこそ、本当のヒーローだよ。