母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、
渓谷へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕はあのとき、ずいぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
――母さん、あのとき向ふから若い薬売りが来ましたつけね。
紺の脚絆に手甲をした。――
そして拾はおとしてずいぶん骨折ってくれましたつけね。
だけどたうたうだめだつた。
なにしろ深い谷で、それに草が背丈ぐらい伸びていたんですもの。
――母さん、ほんにあの帽子どうなたでせう。
そのときそばで咲いていた車百合の花は、
もうとうに枯れちやつたでせうね。
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
――母さん、そしてきつと今頃はーー
今夜当たりは、あの谷間に、静かに雪が降りつもつているでせう。
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と
その裏に僕が書いたY・Sという頭文字を埋めるように、静かに、寂しくーー
西條 八十

カナリアの唄も凄く好きですが、こういった詩も大好きです。
時間がない時の方が、詩の言葉一つ一つに余計惹かれてしまふ。