失われた信頼

とりあえず個人的には環境問題から開放。
まあ、政治や社会のレベルで考えれば、この軸に沿った方向に行く(行かざるをえない)でしょうね。


近代批判でよく見られるような言説、例えば、自然を対象として人が見るようになってから人による自然の支配が始まった、とかいうような言い方。環境学も(大まかですが)その視点を共有しています。
そこから離れて、いかにして新たな自然と人の関係を築けるか、こうした問題の立て方も一緒。

ただ、そこから先の道も答えも一つではないでしょうね。
私は個人の意識や心性、感情に興味があるので、環境が内面に与える影響といった意味では、この問題についても意識しつづけると思います。

ただ最初から疑問でいまだにはっきりしないことがひとつ。
それは
「環境というものをどのように定義すべきなのか?」

環境学の場合は「自然環境」のことを大まか意味してるようですが、「自然」とはどこからどこまでをそう呼べばよいのか?
ダムを見学しながら、自然と人間の関係を探るのは簡単ですが、では山小屋の場合はどうか?畑や田んぼはどうなのか?
そもそも、人が「自然」に触れることができるかどうか自体が疑問です。人が物を認識した瞬間、すでに近代批判で言われるような対象化、物象化が始まっているんじゃないでしょうか。
とすると、それを踏まえて考える環境学という学問は、相当に大変な仕事ということが見えてきますね。

自然を認識しようとする学問ではなく、自然とのコミュニケーション論のような感じですれば、言葉以上に謙虚にもなれるし、相手からも尊敬されるんじゃないでしょうか。

とりあえず言えることは、自然からの信頼を失っては世界の終わりだということです。
そして、一旦、信頼を失った相手から再び信頼されるためには、無限に近い努力が必要だということ。
これくらいに考えておいたほうがいいとは思いますね、私は。