Chant D`automne

julien2003-10-09

秋は、確かに人を感傷的にします。
それはなにも、ボードレールヴェルレーヌ、2人の詩人の秋の歌を、風音のなかに隠しているからでもないでしょう。
夏が去ると、風も、枯葉も、秋の雨、街を急ぎ歩く人影が、そして、見える場所だけでなく、その人々の心までが、こうして秋の色に染められていくように思います。
「心深く染みこんで行く物憂さ」に世界が支配されてしまう。
無意識のうちに、静かに人は秋に染まっていくようです。

夏の輝きと冬の嵐の間にあって秋は、《英雄》と《運命》に挟まれたギリシアの乙女のようなベートヴェンの交響曲第4番を鳴らし、冬に冥界に戻らねばならないペルセポネーの規則的な悲しみをどこかで歌っているからなのでしょうか。

けれど、私は世界に感傷的になったりできません。私は泣きません。瞳様、ごめんなさい。☆

感傷的になるのは言葉の上でだけ、その上で踊る時にだけ、私は感傷的になれます。

なぜなら、もうどこにも本当の秋は存在しないから。

私達が知る「秋」は、きっと人々が作ってきたものなのでしょう。
ただの時間の流れのなかに人は、秋色の美しい額縁をあてて、まるで1枚の絵のように眺めてきたのでしょう。
この国のように季節の訪れが規則的ならば、人はそれを風物として扱うことができて、だからこそ私達は季節をより深く、より美しく見ることができる。
憂鬱な長雨の季節に、それを眺め暮らした小野小町のように、人は自分の感情や想いを、世界に重ねて眺めることができるのだとしたら、それはとても美しいことでしょう。
けれど、額だけが残り、実際は景色が失われているのだとしたら、私達はなぜ、これほど感傷的にならねばならないのか。

秋は確かに美しい。けれど、私達は一体何を見つめているのでしょうか。
繰り返し訪れる感傷はただ「私の心を痛まし」め、言葉の上での私は私を、静かに眺め、秋を見つめ直す。