額縁が見えなくなる

最近になって、再び芸術に対する関心が戻ってきました。
そういえば、なぜか私は昔から美術が好きで、ニューヨークにいたときも、アテネ、パリ、ロンドンなどを訪れた時も、多くの時間を美術館やギャラリーにいることで費やしたものでした。
なぜ私がそれらに惹かれるのか、それを説明するのは困難です。美しいものの儚さを身に沁みて知っているから、どこかに永遠を保つような芸術品に惹かれるのかもしれません。

ここ1年程の間,そんな関心が薄れていたのは、移ろいゆくもののなかに美を見つけ出したかったのかもしれません。ただ、手にしてみたところでそれが時間から自由になっていたわけでも、儚さよりも強くなっていたわけでもないことは、最初から分かっていたのですが。

再び関心が強くなったのは、その経験から得た挫折の故かと思われるかもしれませんが、それは少し違っています。むしろ、自分は、より現実的になっているし、ニヒリズムが笑うことや泣くことと同じ程度に自然なことになっています。何より私が陶酔から覚めた時に、そこに見たものは見慣れたものでははなかったのですから。


私は視覚の一部を失ったのかもしれません。マテリアルの輪郭がぼやけて見えます。
けれど、それは私が悲しみに包まれているからではないでしょう。涙で風景が霞んでいるのではありません。
ただ、そんな風に輪郭がぼやければぼやけるほど、よりはっきりと光が見えてくるのです。
額縁は絵を飾る人や、それを眺める人にとっては必要かもしれませんが、その絵を風景のなかに溶け込ませるものには邪魔なだけです。

私はこの新たな景色のために、美しいものを再び溶け込まなければならないのかもしれない。