カレラ

某国立大で博士過程にいる友人などに較べれば些細に過ぎないとはいえ、部屋にはかなりの数の本がある。どれも数年前には身近なものとして読まれたものなのに、最近はさっぱり疎遠だ。
でも、画集や詩集はたまに手にとって目を遊ばせる。後者は引き込まれると恐いから滅多にそうすることもないのだが、それでも感じるものは多い。
しかし、どれも以前とはまるで違って見えるのだ。なつかしいのではなく、どれも初めて目にするかのような印象。それが、ある距離、それもひどく時間的なもののせいでそう感じるだろうということは分かる。けれど、かえってそこには親しみがある。絶対に裏切られないだろう友人たちとの再会のような。そして、それはある意味で私を裏切る。つまり、かつての私自身、彼らのことを何も知ってはいなかったことを教えてくれる。
だから、私は彼らと一人一人、いつか真剣に向き合わねばならないとさえ感じる。つまりは、今の私の目標が彼らとの関わりを絶つようなものなのであれば、私はそれを継続したりはしないということだ。
けれど、今の私(と協調する目標)が、彼らと調和の不可能な、まるで水と油のようなものとは思わない。思わないだけでなく、それには確信さえある。なぜなら、去年からの私は何かに全てを捧げて、過去と決別したりしたわけではないからだ。
それに、違和感を感じるたびに、私はかつての私自身の一部を見つけるようなことを無意識にやってきた。その度に、そのそれぞれが再び結びつき、別の私を支えたりした。
だから、恐れるものはなにもない。むしろ、彼らとの再会、過去の私自身との出会いを、夢見たり感じたりするだけで、もう充分なのだ。
たえず変化するものに、どこかで意識的になれること。一瞬のなかに完成された構造を見ること。先への繋がりを感じること。現在することは、本当に美しい。気を滅入らすニュースばかりに飲まれることもない。