Shining Valley, Blue Hill, & Hotel Of Fields

昨日は渋谷から青山、原宿へと。歩くには日差しが重いが、久しぶりのあの街はほとんど変わらない。時々瞼に焼きつく残像とのずれに驚くことがあっても、基本は変わらない。変わるのはいつも私一人だ。でも、それが否定的に視界を曇らすばかりじゃない。
定刻前の白い光も、まるでシンガポールの夕焼けのように、色彩が混じりあって、気付けば夜になっている。時間の流れなんていうのは、そんなふうに自然に移り変わって、ある瞬間に見出せばいいというのはここでも間違っていないんだろう。
気の滅入るような住み慣れた街の風景も、架空の名前が氾濫する街並みも、残像上の名前のない男もリンクが切れることはない。あれは私だ、そして、これも。

それにしても、お酒も食事も美味しい。瞬間の感覚が麻痺しないためなら、なんだってする。俺は幸せになりたいわけじゃない。ただ、言葉に飲まれそうな、あの瞬間の積み重ねが恐くて好きだ。揺らぐ中での確固とした感覚を信じよう。日常の始まりなど心持次第。忘れることなく、退屈や倦怠を変化させる。血液中からアルコールもニコチンも消えたところで、それがなんだという。

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空はこんなに広くて青いのに、なんで悲しまなければいけない人がいるんだろう。俺の翼も傷だらけでも飛ぶのになんの支障もない。けれど、もう少し強ければ手を伸ばせるのにあまりに非力だ。
楽しむことは素晴らしい。でも、それだけじゃない。もっと多くだ。感情は光だけ浴びて輝いたりするものか。少なくとも、自分のことだけでこんがらがって、何も余裕なんてないよ、と嘯くだけのようなことはもう絶対にない。そんな意味で、無数の記憶が俺にくれるものは計り知れない。多くの残像が俺を襲おうとも、俺はそいつらを愛しく思う。